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『母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。』ことは猟奇的なのか?違うでしょ、という話

更新日:

著者:吉原さん

非常に印象的なタイトルの、宮川さとし『母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。』

作者の自伝エッセイ的なマンガです。

本編については別記事(別記事①別記事②)で触れましたが、ここではこの目を引くタイトルについて書きたいと思います。

それでは、よろしくお願いします!

遺骨を食べたい想い

収骨の際、焼いた棺に残った骨を火葬場の職員が下げていくのを見て、ふと主人公はこんなことを思います。

まだ残ってるじゃないか…

それなら欲しいよ… っていうか…

(むしろ食べたい…)

その瞬間 僕は

母親を自分の身体の一部にしたいと 強く願いました

母の遺骨を食べたいと思った

(新潮社/宮川さとし『母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。』第1話「母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。」)

次のコマですぐに(今 考えると気持ちの良い話ではないんだけど…)とは言うものの、まぁそういうことを考えたそうです。

このタイトルは猟奇的か?

さて。

この作品のあとがきでは、連載開始当初、「ホラー漫画なんですか?」と聞かれることも多かったと書かれていますが、正直に言えばちょっと驚きました。

個人的には、このタイトルと表紙と見て「ホラー」の印象を受けるっていうのはわかるような気がしそうでいてやっぱりわかりません!

以下、タイトルをバラしながら詳しく話します。

「母を亡くした時、」

まずですよ。

「亡くした時」という主観的な表現である理由を考えてみてください。

「死んだ時」じゃないんですよ。「亡くなった時」でもないです。

「亡くした時」です。「亡くした」のは誰か? 自分です。

誰かが「死んだ・亡くなった」という話ではなくて、「自分がその人を失った」そういう表現なんです。

「母の死」への距離感が近いことがわかります。

ちょっと表現を変えてみましょう。

『母が死んだ時、僕は遺骨を食べたいと思った』

『母が亡くなった時、僕は遺骨を食べたいと思った』

印象が変わったのが伝わりますか?

少し解釈が変わって「母の死」への距離感が遠くなっていることがわかると思います。

当事者の立場ではなく、客観的な立場にあるということです。こうなってくると読み方も変わってきます。

▶第三者的な目線である。▶どこか他人事である。▶にも関わらず「食べたいと思った。」のはなぜか?

このように「母の死」への当事者意識が薄い表現の場合、そんな母を「なぜ食べたいと思ったのか?」という動機が気になりはじめるんですよ。

そこに猟奇的背景を読みとることもあるでしょう。

しかし、実際のタイトルはそうではない。

『母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。』のです。

▶自分が母を失ってしまった。▶そして、母の遺骨を食べたいと思った。

(あぁ、母を失ったこの人は、母を深く愛していたのかな)という風に動機の方向性を類推できるわけです。

「僕は遺骨を」

その上で、「遺骨」を食べたいと思ったんです。

蛇足の説明かもしれませんが、「骨」でも「人骨」でもなく「遺骨」。

当然、その対象への敬意ある表現なわけです。

さすがに死肉を食らいたいとまで言われれば、「鬼」の領域に片足つっこでると言わざるを得ませんが、そこはあくまで「遺骨」。

愛情あまって遺体をしゃぶりつくした『雨月物語』の『青頭巾』とは違うわけです。

焼かれて生前の姿を失い、白い骨の欠片と化した「遺骨」は、故人が「結晶化」したように見えても不思議ではありません。

「食べたいと思った。」

「むしゃぶりつくしたい。」でも「食べた。」でもなく、「食べたいと思った。」ただそれだけなんです。

ふと、胸に去来した「食べたい」という単純な思いであり、実行したわけでもありません。

私はこの表現から黒い感情を読み取ることができない。

このタイトルは猟奇的か?-まとめ

試しにこれまでの例を使ってちょっとタイトルを変えてみましょう。

『母が死んだ時、僕は骨をむしゃぶりつくしたいと思った。』

どうでしょう?

これなら猟奇的と言われてもしかたがないですね。ヤバい感じです。

しかし、実際のタイトルは作者自身があとがきで「タイトルにはこれ以外に無いと思うようになりました。」と書くように、端的に本作の中心点をあらわしており、猟奇的と呼ばれるような類のものではありません。

『母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。」表紙

(新潮社/宮川さとし『母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。』表紙)

パッと見た感じの字面で早合点さえしなければ、全く違う内容であることがタイトルだけで判断できるはずです。

この作品のタイトルは「猟奇的」なのではなく「根源的」と解釈すべきです。

以下、その理由を補足します。

「骨噛み」

さて。

この、亡くなった人の骨を食べるという発想はどのくらい一般的なことなのかと思って、googleで「死んだ人 骨 食べる」で検索してみました。

するとまぁいろんな話がでてくるでてくる。

故人を悼む儀式として「骨噛み」という風習が日本各地にあったそうです。

葬儀業者さんのサイトで「骨噛み」についてちょっと詳しく書かれてありました。

この作品、『母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。』のことも一番下に紹介されています。

yahoo知恵袋なんかでは「日本人はそんなことしない!」と反発する人も多かったですが、このコメントなんかいい味だしてますね!

上記は、私が「死んだ人 骨 食べる」で検索した時にトップで表示されたページです。

「骨噛み」を個人的な感情・信条で忌避することは、現代的な感覚から言えばごく当たり前のことだとは思うのですが、なぜわざわざ「日本人」を持ち出して否定しようとするのか…。

個人的には、宗教的にもこのような行為がある程度一般化していた、ということは合点のいく話でした。

亡くなった人の人格や能力・社会的地位、また単純な思慕の情など、対象と「同化したい」と思わせるような感情自体はごく自然なものではないでしょうか。

永遠に失われてしまうものを逃すまいとあがく、実に人間らしい行為と言えます。

こう、ちょっと想像してみると諸星大二郎先生が描きそうな…、民俗学的に「ありそう」な感じしませんか?

私は作者が抱いた「母の遺骨を食べたいと思った」感情は、現代社会においては普遍的ではないにせよ、根源的かつ人間的な欲求の発露だと考えます。

まとめ

編集側でもタイトルのことは気になってたみたいで「女性が手にとってくれないのでは…?」と心配されていたそうです。

まぁ、むべなるかな。言わんとすることはわかります。

しかし、それでも商業性より作者の感性を優先した、作者と出版社の判断は正しい。

私はこのタイトルを見た時に一発で「買わなければならない種類の本だ」ということがわかりました。

レジまで一直線ですわ。

このタイトルのおかげで必要な人に必要な本が届いた。すばらしいことです!

タイトルだけで一記事書いてしまいましたが、要は体重の乗った良いタイトルだし、母の骨を食べたいと思ったことも、強い弔意のあらわれの一例でありなんらおかしなことはない。

そういう風なことが言いたかったのです。

言いたいことは、それだけだったのにその割に長い記事になってしまいました…。

ここまで読んでいただきありがとうございます!

おわり。

それでは、また!

※とても嬉しかったリアクション

作者の宮川先生から、ツイートしていただきました。

直接お礼を言っていただけるのも嬉しかったですし、デリケートな話題だけにこんな風に評価していただけて本当に良かったです。

宮川先生からツイート

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