著者:吉原三等兵(@Twitter)
いきなり結論から入りますが、少なくとも「消費される性」は子ども向けのコンテンツには相応しくないし、少なくとももっと議論が必要だろう、と考えます。
私も一介のマンガ読みとして生きてきた人間ですから、「表現の自由」に関しては広く認められて欲しい立場。
それでも無批判な形での子どもへの流入は、大人として一考する必要があるでしょう。
目次
「しずかちゃん」「お風呂」で検索
21世紀も2割が過ぎ去ろうかというこの時代。
「女だらけの水泳大会」や「バカ殿コント」「ギルガメッシュNIGHT」がブラウン管から流れてきた80年代は遠い昔。
今ではとても考えられません。
ふと。
自分の子どもがマンガが読める年齢になってきたところで、現在の児ポルノ情勢が気になりました。
例えば国民的アニメ『ドラえもん』の「しずかちゃんの入浴シーン」の取扱いって今どうなってるんでしょうか?
昭和の頃は「きゃー、のび太さんのエッチー」くらいですませていましたが、他のテレビ番組同様こちらも放置はされてはいないはず。
現在の落とし所は一体どの辺に落ち着いたのか…。
(パチポチ)…「しずかちゃん」(パチポチ)……「お風呂」
……!!
「頬の紅潮」や「目の端の涙」を浮かべた平成バージョンのしずかちゃんの画像が目に飛び込んできました。
直接的な描写は「昭和ドラえもん」の方がハッキリとしているのですが、「平成ドラえもん」は、よりサービス意識が強くなっているように見えます。
「性消費の文法・記号」の一部と見て差し支えないでしょう。
個人的な感情だけで言えば、80~90年代のあっけらかんとしたエロ表現より、こっちの方がキツかったです。
しずかちゃんの裸は表現の自由か?
さらに予測検索には「大魔境」が出てきており、これはどうも映画の平成版「のび太の大魔境」(2012年)の入浴シーンがかなり力が入れられていることが原因のようです。
また『ドラえもん のび太のひみつ道具博物館』(2013年)がテレビで放映された際は「半裸に剥かれたしずかちゃん」に一部規制が入ったようで、その際は「表現の自由!」も叫ばれたようですが…。
いや、この波には乗れないなぁ。
むしろ原作を汚されたくらいに感じる自分がいました。
より「しずかちゃんを性消費したろう!」という荒い鼻息を感じ、めまいがします。
趣味嗜好を攻めるというよりも、「公共電波」で「子どもに対して」に垂れ流すことが「表現の自由」の名のもとにどこまでも許されていいのか、ってこと。
本来そういう需要って二次創作などアンダーな場所で解消されるべきなんじゃないんでしょうか。
ここは一度、足を止めて考えたい。
しずかちゃん入浴シーン表現の変遷
ちなみに、映画の「しずかちゃんの入浴シーン」の表現レベルの変遷については、こちらの記事が非常にわかりやすい一覧表を作成しておられました。
参考 映画ドラえもん、しずかちゃんの入浴シーン表現の変遷についてプリキュアの数字ブログひとつのアニメ映画の表現のレベルを追っていくことでその当時の社会情勢がわかりやすく表れています。
※真面目な表です。
自由な80~90年代。沈黙の00年代。そして…
上記のブログを参考にすると、規制対象となる部分(パーツ)を「描くか、描かないか」という意味で言えば、明らかに90年代後半から規制が強くなっています。
また2000年代については9作品中、入浴シーン自体が一切ないとのこと。
そして、2010年代には入浴シーンが復活します。
実は、2010年に東京都がしずかちゃんの入浴シーン、キューティーハニーの変身シーンなどは、
「性交または性交類似行為を描いたものではないので対象にはならない」
「東京都青少年の健全な育成に関する条例」(青少年育成条例)改正案に関する質問・回答集(FAQ)
との考え方を示しました。
アニメ映画の『ドラえもん』で入浴シーンが復活するのはそういう背景があったからかもしれません。
制作側は「行政のお墨付きが出た!」と捉えたのではないでしょうか。
個人的には「性交または性交類似行為」の表現があっても問題ないものもあれば、「性交または性交類似行為」の表現がなくても問題がある作品もありうると思いますが、いかがなものでしょうか。
上記を踏まえて、許されるエロ表現の境目を考えていきたいと思います。
許されるエロ表現の線引きはどこに?
規制の線引きをするにもいろんな基準がありうるだろうと思います。
思いつく範囲内で順番に見ていきます。
直接描写
規制対象に当たる「部分(パーツ)」が描かれているかどうか、ですね。
上記の『ドラえもん映画』の変遷でも見てきました。
80~90年代はゆるく、現在は比較的厳し目に設定されています。
非常にわかりやすい線引きです。
しかし、わかりやすいだけにその描写の有無だけを持ってして一律禁止などとなるとこれも問題。
実際中身は玉石混淆です。
しかし、一定の規制が必要なこと自体はほとんどの人が否定しないでしょう。
(「自主規制」でやるべきか、「行政による明文化された規制」でやるべきか、という問題は別途ありますが)
やっぱり誰でもアクセス出来るところに、何もかもが露わになるべきではありません。
飯がまずくなる。
一定の物理的規制の線を引き、より自由な描写のある作品については、アクセスできる領域を制限すること等で対応すべきと思います。
しかし、ちょっと角度を変えれば…。
木村紺『からん』では「女子高生」の「シャワーシーン」があるわけですが、1mmも性消費させようという意図は感じられません。
大石恵という「アスリート」の「鍛えられた肉体」が表現されているだけです。
これを「エロ」の文脈で読み取ることはできない。
画像小さめにのっけておきます。
木村紺『からん』5巻 第22話/講談社
つまり「露出」そのものが本質的な問題とも言えないわけです。
東京都は性行為の有無でもって一つの判断基準としていましたが、それはそれとして「出し方」や「目的」「扱われ方」にも今一度着目すべきだと思います。
サービス意識・エロ消費志向
私が気になるのは直接的な表現の有無よりも、むしろ「消費するための性かどうか」という部分。
程度問題ではあるんですが、(特に子ども向けの作品において)「消費される性」としてのサービスカットは苦手。
もうね、見てられない。
例えば、井上雄彦『SLAM DUNK(スラムダンク)』の赤木晴子のパンチラ。
『SLAM DUNK(スラムダンク)』連載初期は「バスケットボール」という当時人気のなかったスポーツが題材になっていただけに、打ち切られないように相当工夫していた、というのは有名な話ですが、その一環の人気取りなのでしょうか。
もし、そうだとすると。
ちょっと大げさな言い方をすれば、作者が本当に描きたい「バスケットボール」を描き続けるために、「赤木晴子のスカートの中身」が全国◯百万人の少年ジャンプ読者に差し出されたということ。
これを不憫と言わずしてなんというのか!
こんなにも目と心が猛烈に痛いパンチラは初めてでした。
ちなみに、不動の人気を得てからは一切エロ描写はありません。
モラル
「イヤ~ン」程度ですまされてしまうセクハラ行為。
よくありますね。
「なんで、それですまされるんだよ!」っていう。
一般社会の中でのモラルがそこに存在すれば、男性側も女性側も「もう少し異なるリアクション」とるだろってやつ。
多くの場合「半ば合意のあるセクハラ展開」を盛り込むことで、キャラクターの「人間」としての造形が歪んでくるんですね。
だって、現実にそんな人間いないでしょ。
いや、いてもいいよ!
いいけど、ものすごく人格が歪んでるでしょ。
そういう人物を描ききる覚悟でやるのならば素晴らしい試みだと思います。
(手塚治虫『奇子』なんかはそれに近い)
しかし、そういう取組みでないのであれば、もはやそれは単なる「エロ要員」です。
つまるところ2次元のダッチワイフ。
私は「キャラクターが生きている」作品が好きなので、ストーリーものでやられると結構キツい。
逆に、はじめからそういう部分を狙った作品であれば構いません。
それはもう、純然とエロ本なので紳士・淑女の皆様が分別を持って愉しめば良いんじゃないでしょうか。
ただ、子どもが分別をつけて楽しめるか、ってこと。
大人だって分別が狂ってしまってるんじゃないかって事例があるでしょ?
「人間性」を無視した脈絡のない展開のエロ描写を、何度も何度も、軽いノリで、色んな所で見せつけられた時。
それを受容することに慣れきってしまった時。
「性」への認識が未発達な子ども(特に男児)は、どうなっていくのでしょうか。
この問題に関しては、「頭の上から爪の先まで、思いっきりエロ本!」という作品よりも、ある程度ストーリーがある中で「お色気要素」として放り込まれるエロの方が、日常と地続きである分、モラル破壊力が高いような気もしています。
人間をダッチワイフと勘違いするような、歪んだ認識が植え付けられる可能性は否定できません。
エロ表現・有り無しフローチャート
だいぶ要素が複合的になってきたので、頭の中の整理のために現時点の私の中の「エロ表現・有り無しフローチャート」を作成してみることにしました。
まだまだ乱暴なくくりで、これで分けきれない作品は山ほどあります。
また個別具体的に、私個人の「有り」「無し」を述べること自体はまぁ可能なんでしょうが、現実に社会全体で具体的な線引きとして使える指針をこねくり出すのは相当難しい。
難しくさせる要因のひとつに、クオリティの問題があります。
表現規制はクオリティを勘案できるか?
例えば山本直樹『ありがとう』、新井英樹『ザ・ワールド・イズ・マイン』、喜国雅彦『月光の囁き』はどうか?
私はすべて「有り」(子どもには「無し」ね)と判断しますが、これらの作品を社会の共通認識として「有り」とするのは否定したい方もいらっしゃると思います。
しかし、クオリティの高い作品も含めて一律「発禁の対象」とされると困るわけです。
ひとつの「文化の死」と言えるでしょう。
じゃー、クオリティが高ければなんでも許されるのか。
「クオリティ無罪」か、と言われるとそれもやっぱり問題があると言わざるを得ない。
具体的な名前は挙げませんが、とあるマンガ作品は非常に高いクオリティでしたが、明らかに「犯罪喚起」に該当する内容でした。
そして、欲望を喚起されて行動に移した事件の報道もなされています。
私は実際に読んでみて、この作品のクオリティの高さを認めました。
ですが、多くの人間が被害に合わないために、この作品を楽しむ人間の自由はやっぱり制限されるべきだろうと思います。
それは「重さが釣り合っていない」からです。
「マンガにおけるエロ表現規制」のまとめ
色々と偉そうに書いてはきましたが、では実際にどの程度・どのくらいの規制が適切か、と問われると・・・。
「客観的にルールを決める」っていうのは難しいな、と改めて感じました。
例えば、「クオリティ」だの「意味」だの「目的」だの言ってみたところで受け取り手も千差万別ですからね。
でも、だからと言って一方的に表現が禁止されたり、また逆に無差別に垂れ流されたりしていい問題ではありません。
私はマンガを愛しています。
愛しているからこそ、ある程度の規制が必要だろうと思います。
今後もマンガ文化が発展していくために。
そのために、まずは「自主規制」。そして「ゾーニング」。
読み手と送り手に自浄作用が足りなければ、お上が乗り込んでくるわけですから。
その時、どんな乱暴な規制がかかるかわかりません。
でも、結局それって自らの行いのせいではないですか?
ひとつひとつ個別的に事例を見て、折々考え、時に声に出す必要があると思います。
それでは、また!
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記事中で紹介した木村紺『からん』と手塚治虫『奇子』をご紹介します。
木村紺『からん』
打ち切り、幕切れになってしまった「大傑作の卵」。
女子高の柔道部、そして京都という街そのものを題材にものすごいドラマが用意されていたことは明白でした。
"高瀬雅"という新しい主人公像と言える人物の活躍も楽しみで仕方がなかった。
いつか連載再開という奇跡が起こってくれないかと祈り願う作品第1位。
手塚治虫『奇子』
戦後の混乱期の地主一家のまったく不愉快な家族間の人間模様。
意味を理解できないほど幼い頃に読みましたが、それでもビシバシに伝わってくる不快感。
大人になってから読んだら、少しずつ登場人物の気持ちも想像できるようにはなっていましたが…。
とにかくおすすめです。
ネタバレになるようなことをあまり言いたくないのですが、ひとつだけキーワードを挙げるとしたら"近親相姦"でしょうか。
こういうナイフの一刺しのような作品がポンポン出てくるところが手塚治虫先生の凄さですよね。