「面白い」ものはつまらない。「自分を否定する作品」の意義

コラム

著者:吉原三等兵(@Twitter

あまりウケがよさそうな内容になると思えませんが、自分自身で整理しておくためにもここに記します。

私がいつもどんな作品との出会いを求めているのか。

その「ものさし」のひとつとして、

「面白い」ものはつまらない。

という考え方があります。

もう少し正確に言えば「面白い」だけのものはそれだけでしかなく、そこに見い出せる価値は限定的である、ということになるでしょうか。

人生に幸せだけを求めてはいない、という話と少し近くなるかもしれません。

「人は幸せになるために生まれた」わけではない。【前編】キリンジに学ぶ幸福論
「人は幸せになるために生まれた」わけではない。【後編】マンガに学ぶ幸福論

自分の中の「心地よさ」の追及はほどほどにして、浸らないようにしたいものです。

それでは、よろしくお願いします。

「面白い作品」と「面白いだけでは表現しきれない作品」

こうして記事を書いてきても、たまにどう表現するべきか逡巡される言葉。

「面白い。」

そう。

「面白い。」

意味は至極簡単です。

楽しいとか、興味が湧くとか、心地よいとかそういった類のポジティブで意味の広い使いやすい言葉。

便利な言葉ですので、私も口頭で「○○(という作品)は面白い」と表現することもあるでしょうし、このサイトでもそう表記してきたこともあったかと思います。

しかし、そんな私自身「面白い」という言葉を使うことに対して、抵抗を感じることがあるのです。

※「面白い」という単語がシンプルな意味もしくはシンプルではない意味どちらかに限定して解釈されるのであれば話は別ですが、受け手も千差万別である以上、なかなかそうもいきません。

おおざっぱに2つに分ければ、「面白い」とだけ表現できる作品と、「面白い」だけでは表現しきれない作品があります。

誤解を生むリスクを承知で、あえて単純化して表記するとすれば

  • 「面白いだけの作品」=エンターテインメント(娯楽)
  • 「面白いだけではない作品」=自分を否定するものも含む

と言い換えることが可能かもしれません。

「面白いだけの作品」とは娯楽としての純度が高い、ということ。

あくまで娯楽。楽しむだけのためのもの。

逆に「面白いだけでは表現することができない作品」には不純物があります。

私が言う、この「不純物」とは娯楽作品の中にある「人生の教訓」だとか「ちょっとした感動」だとかその程度の耳障りの良いものを指してはいません。

ここで言う「不純物」とは、

普段意識されていなかった不愉快な現実の可視化、

現段階でまったく消化できない価値観、

理解も想像も及ばない事象、

ストレートに自分自身を否定してくる内容

などを指します。

総じて「面白い」と一言では言いあらわすことが難しいもののことです。

この不純物の摂取こそが大事なんだろう、と私は考えています。

(特に若いうちは)

ちなみに。

「面白いだけの作品」であるかどうかは、作り手が「娯楽作品を作ろう!」と割り切ってるかどうかとは直接は関係がないように思います。

作り手がエンタメに徹したつもりであっても宿るときは宿るものです。

(逆もしかり)

割り算のあまり=必要なもの

私はクラスに一人はいるであろう、図書室・図書館に入り浸っているような人間でした。

で。

小学校高学年から中学生くらいはタイトルに聞き覚えのある本をかたっぱしから読んでいる時期でしたが、少し背伸びしたチョイスはピンとこない部分も多いわけです。

そこには「面白い」けれども、一言で「面白い」とは表現できない不純物が多く含まれていました。

しかし。

「わからない」ことが楽しい。

「今のままじゃダメだ」と思えることが楽しい。

そういう楽しさがあった。

そういう意味で、ゴロゴロとした消化できない不純物がたまっていくことが、ストレスでもあると同時に楽しかったんだと思います。

正確に言えば、その不純物の塊が溶解していくときに、自分が拡張だったり更新される感覚がひとときの安堵を与えてくれたのでしょう。

たとえ今はまだ分からなくても、前に進むための材料が収集できている。

どうあれ「これでおそらく前に進めるだろう」という安堵です。

ひるがえって。

「面白い」だけの作品はどうでしょう。

楽しいことは確かですが、どこかに進んでいる感覚は与えてはくれませんでした。

「面白い」「楽しい」それで終わり。

十分に楽しんだとしても、その後にいくばくかのむなしさと物足りなさが生じるのは当時の私にとっては自然なことだと思います。

基本的に私は生きていくことや世の中への漠然とした不安・怒り・不可解さを感じていたタイプでしたので、その対策が必要だったのではないか、と思います。

「このままじゃまずい…」と思っているのに、「気にすんなよ、楽しもうぜ、今のままの君でいいんだよ☆」ってうるせえよって話なんです。

もちろん、人生の楽しみとしての娯楽を全否定しているわけではなく、好んで読むこと・観ることもありましたし、今もあります。

(当時はアーノルド・シュワルツェネッガーが好きでしたし、今でもホラー映画は好きです★)

エンタメ一辺倒の作品が一様に無価値なわけではなく、受取り方も消化の仕方も使い方も人それぞれであり、またその時の状況次第でもあるので、一般化して「良い」とか「悪い」とか断ずるつもりはありません。

ただ、私の場合は自分が容易に理解できない作品を好んで読むという行為が、他者や世界を理解することにつながりました。

やはり「面白い」という割り算で割ったときに、割り切れない「あまり」がでることが大事なんじゃないでしょうか。

今後も私は「面白い」だけを基準に作品を選ぶことは少ないんだろうなと思います。

「楽しみ方」を変えるべきか

で。

ひとつ、話題をこのサイトのメインコンテンツであるマンガに絞ってみましょう。

前からひっかかっていたことがあるんですが、今回の記事を機会にちょっと書き起こしてみたいと思います。

基本的に私はマンガに関しては手広くは読まずにごく少数の作品を選んで狭く読むタイプだと思っています。

一口にマンガと言ってもジャンルも幅広いですからね。

とは言え、一応「マンガ読み」なのでそれでもそれなりの量になり、特にマンガが趣味ではない一般人から比べれば、「いろんな作品を手広く読んでいる」という印象を与えることもあるようです。

が、実態としてはマンガ読みとしては別に手広くはありません。

「マンガの海」は広大です。

私はその海をくまなく泳ぐことを楽しんではいませんし、そもそもできません。

もっと言えば、したいとも思いません。

自分が好きだったり、必要だったりする浜辺や磯へでかけていくことならばしますが、近寄りたいとも思わない腐臭を放つ海もたくさんあります。

そして率直に言えば。

年々、特にこの5年、10年。

私の求める作品群を"底支えしていた力"の衰えを、TSUTAYAの売り場を見て感じています。

(センスの良い個人店や巨大専門店ではないところがポイント。つまりマスを表す指標としてのTSUTAYA)

これまでも「最近良いマンガ少なくなったなぁ…」→「やっぱりマンガは良い!」のループを繰り返していたものの、そのこととは別の次元で業界が変質していっているように思います。

で、ですよ。

特定の作品にしか執心しないこと、あるいは一部の作品には忌避するような態度を隠さないことに関して、

「私が好きな作品をけなすことはけしからん」

「より多くの作品を楽しめる方が良い」

果ては

「楽しめないならお前の楽しみ方を変えた方がよい」

「つまんないならマンガ読むのやめろ」

という意見をみかけることがあり、また実際にご意見いただいたこともあります。

ほっとけと。

端的に言えば、面白いだけのエンタメは退屈で退屈で仕方がない(突き抜けていれば別)し、もっと言えばこんなもんばっか見てるとバカになるなと思ってる作品も多いし、社会を壊しているだけだな、と思う作品もあります。

それを楽しんでいる人達を自ら探し出していちいちくさすつもりはありませんが、なんでそんなものをこっちが楽しむよう努力せねばならないのか!?

という話なんです。

「享楽は正義」っていう考え方には、私はまったく賛成ができない。

ついでだから言いますけど、特にエロに関しては歪みがひどいと思っています。

「しずかちゃんのお風呂問題」から考える-マンガにおける表現規制

楽しけりゃいいのか? 気持ち良ければいいのか?

一度でもそれを自分に問うたことはあるんでしょうか?

自分が好きな作品を悪く言われることの不快感はわかります。

でも大事なことは賛否それ自体ではなく、その批判の内容ではないですか?

私は自分の好きな作品のAmazonレビューの★1つを読むのが嫌いじゃありません。

納得いく意見もいかない意見もありますが、他人がどういう目線を持っているのか自分がどんな角度でみているのか整理できることもあり、結局は賛否の問題ではなく内容の問題だと考えています。

「自分は引き続き好きではあるが、自分が可視化できていなかった問題点があり、その点について批判があるのは当然だ」

そんな捉え方をすることだってあるんです。

しかし、現実には内容ではなく賛否、いや「否」そのものが問題とされることが多いのではないでしょうか。

「人が好きなものを嫌いとは言わない」

という"空気"は定着していると思います。

それ、"無差別"にやっちゃっていいんでしょうか?

ミソとクソが一緒になったようなやり方は"無分別"というのはではないですか?

例えば、私は他人が好きだからと言って、子供への加虐を行う作品を擁護することはできません。

「人が好きなものを嫌いとは言わない」

よござんしょ。

一定の理解は私にもあります。

私も少しでも自分が好きな作家の売上げに貢献できたらという思いもあってこのサイトを運営しているので、悪いものを見つけて語るより良いものを見つけて伝える方が優先順位が高いです。

今後もサイト運営において、批判するために個別の作品を取り上げることはないでしょう。

ただ、そのことと「批判すること自体が悪い」ということとはつながらないですよね。

まして、「楽しめないなら、楽しみ方を変えた方がいい」だのなんだのと、たかが「楽しむ」ために、他人の生き方や価値観を変えさせようとはなんたる傲慢か!

私はその辺歩いている人を捕まえて、山田花子『嘆きの天使』やいましろたかし『ハーツ&マインズ』なんかを眼前に突き付けて「楽しめ!」なんてことはしませんよ。

※ここを通りがかってしまうようなあなたにはしますけどね(笑)

快楽主義・享楽主義は結構ですけど、皆が皆、目先の幸せを目的に生きていると思ってくれるな、と。

私は自分の中のポジティブな感情もネガティブな感情もどちらも大切しながら生きていきたいんだっつーの。

…という話でした。

おわり。

あせわせて読みたい

予告どおり(笑)、山田花子『嘆きの天使』、いましろたかし『初期のいましろたかし』をご紹介します。

山田花子『嘆きの天使』

厳しい社会の底辺で、なんとか生きている人間(女)を描いた短編集。

辛いときに読むと楽になるかさらに落ち込むかどっちかです。

この作品が泣けるのか笑えるのかはきっと人によって違うんでしょうが、私の場合は、笑うに笑えないっつーか、泣くに泣けないっつーか。

しかし、その真実の叫びに、人間への愛しみを感じずにはいられません。

作者の山田花子先生はすでに自らの意志でこの世を旅立たれてしまった(享年24歳)という事実が、彼女の作品をさらに重く感じさせます。

いましろたかし『初期のいましろたかし:ハーツ&マインズ+ザ★ライトスタッフ+その他』

厳しい社会の底辺で、なんとか生きている人間(男)を描いた短編集。

作者は数多くのクリエイターのリスペクトを集めるいましろたかし先生。

前述の『ハーツ&マインズ』なんかもこの中に収録されています。

かの新井英樹先生をして

もしボクが独裁者なら

「いましろたかし」を読んで笑えない奴

泣けない奴は殺します

(いましろたかし『初期のいましろたかし:ハーツ&マインズ+ザ★ライトスタッフ+その他』/IKKI COMIX)

と言わしめた作品群が楽しめます。

収録作が発売されたのはバブル崩壊間近の89、90年あたりだそうですが、今の時代にこそさらに輝きを増していると言えるでしょう。

そうですね……あえて乱暴に一言であらわせば「滑稽」

「滑稽」…なのかもしれないです。この作品に登場する面々は。

彼らのまったく様にならない、身もふたもない不器用さに思わず笑いを誘われます。

ただそれらを単純に笑い飛ばすことはできません。あまりにも愛おしい哀しみがそこにはある気がするのです。

中でも「ジャスティ!」は傑作!

皆さん、ジャスティに生きましょう。

ジャスティにね。

ジャ~~~~~スティ~~~……ス~