著者:吉原三等兵(@Twitter)
今日は「マンガにおけるキャラクターの死」の消費のされ方について言及したいと思います。最近あまりにもあれなんで。増えすぎてるんで。
それでは、よろしくお願いします!目次
死ねば正義の「死」の大量消費社会
新井英樹先生の四コマ漫画『牽牛庵だより』において、主人公のマンガ家が「死ぬと もりあがるよね~~」と言ったように、「死」はマンガを盛り上げる手頃なスパイスとして、この大量消費社会に受け入れられています。
「俺、この戦いが終わったら結婚するんだ・・・」に代表される「死亡フラグ」なんて言葉はもともとはマンガ業界の言葉ではないかもしれませんが、こういう言葉が生まれること自体、「死」が大量消費されている証明のひとつと言えるでしょう。
フラグは「死化粧=エンゼルメイク」みたいなものですね。
そのために、特に必然性なく、ただエンターテイメントとしての「キャラクターの死」が大安売りです。
まぁそれも地球規模で「ドラゴンボールで生き返せばいいや」と言い放つ『ドラゴンボール』くらいのレベルまでいけばもはや清々しいのですが、意表を突けばいい、読者が驚けばいいという安易な発想で殺しまくる物語はちょっと品がなくて不愉快です。
人気が微妙なキャラを抹殺し、新キャラの可愛い女の子でテコ入れすれば一石二鳥なのでしょうか。
死ねばよかろうなのだぁ~。
「死」は人間の最大の関心ごとのひとつ・・・だが
人が死ぬ物語を全否定するつもりは毛頭ありません。
むしろ「死」はほとんどの人間にとって最大の関心ごとのひとつ。「人間」に迫るためには半ば必然的に盛り込まれる要素のひとつと言っていいでしょう。
なので、エンタメ作品においてやたらと人を殺すのすら「片目つぶって」納得している自分もいます。
とはいえ、安易すぎませんか?
しかし!しかし、しかし、どーもなんだか最近、キャラの殺し方に安易さがぬぐえない!
つまるところ、作家に「死」への興味が足りない!「死」への肌感覚が足りない!「死」への畏敬の念が足りない!
展開や演出や人気のことばかり考えていませんか?、そんなことやってるとあなたのマンガも消費されるばかりですよ!?
・・・え?、8万部以上(マンガの興行ライン)売れればそれでいい?
「作品」じゃなくて「商品」描いてるんだからほっとけ!・・・って?
いや、そこまでの覚悟だったら、私はなんにも言わないです。はい。
恐ろしいのは生活ですよ(新井英樹『牽牛庵だより』より)。
コンセプトありきのマンガの限界
でも、往々にしてそういう作家の「作品」もとい「商品」は、主人公クラスのキャラクターにさえ魂が入ってないケースが多いんです。百歩ゆずって企画として面白い場合も、心になんの爪痕も残さないことがざら。
それは、ひとりひとりの人間=キャラと向き合っていないことが原因であり、大体そういう作品には企画もの、コンセプトありきの作品が多いです。
企画もの・コンセプトありきの作品は、骨組みがロジックでできていますので、それをマンガ化する"作業"の中で魂が抜けがちなんではないでしょうか。これはこれからも永遠の課題でしょう。
そして、そんな"作業"でマンガ制作してしまうと、なにも考えずに「死」を大量消費してしまうのでは?
特にそんなビジネスパーソン作家が描いた長期連載作品はシラケます。
「売れている」という商品価値は認めますが、企画書の中身が透けて見えそうなマンガは読みたくない。企画書読むのと一緒じゃありません?「へぇ、面白いね」それで終わり。
短気連載であれば、企画書という骨が作品として肉付けされて面白くも読めますが、長期連載だと冗長なだけ。
「企画の趣旨はもうわかったから・・・それ10・20年かけなきゃいけなかったの?」
と言いたくなるんです。そこに作家の魂が乗ってこないと薄っぺらさが際立つんですよ。
【死ねばエンタメなの?】マンガにおける「死」の大安売りに辟易・まとめ
多くのマンガ家は人気を中心としたいろんな制約の中でマンガを描いていらっしゃって、「ビジネス」の観点も決しておろそかにすべきでないことも重々承知していますが、やはり「半歩」くらいは「表現者」たらんと読者である我々に踏み込んできてほしいし、そういうマンガが私は読みたいです。
それでは、また!