【GB~PS2まで】ゲーム人生15年でのベストゲーム10選

ゲームの話

たまたまSNSでゲームの話題になり、ひさしぶりに自分がプレイしたゲームについて思い出していました。

これまで自分が遊んだすべてのゲームの中で印象に残った作品を10作品、当時の楽しかった記憶への敬意をこめて選んでみます。

ここは主にマンガ書評のサイトですが、「へー、そうなんだ」くらいで読んでいただけると幸いです。

…と言いつつ。

調子に乗って書いてたら、2万5000字以上になっちゃったんですよね…。

【前編】【中編】【後編】くらいに分割できそうですが、ゲーム批評サイトでもないのに、ゲーム記事の数が増えてしまうのもなんだかなぁと思ってそのまま1記事で出してみます。

数えてないけど、たぶんうちのサイトの記事の中で一番文字数多いですね。

大変申し訳ないですが、ぜひお時間のあるときにお読みください。

それでは、よろしくお願いします。

1.GB『カエルの為に鐘は鳴る』(92年)

GB、ニンテンドー3DSなど

世界観からBGMからシナリオからゲーム性から本当にギッシリと魅力がつまった作品だったと思います。

まるで楽しいものがたくさん詰まったおもちゃ箱のような作品

サブレ王国の王子様が親友のリチャードとともにミルフィーユ王国のお姫様を救う、、、という低年齢向けの世界観でややコメディ調のドタバタアクションRPG。

ヘビやカエルに変身しながらその特性を使い分けて攻略する、パズルゲーム的な要素もあります。

小ネタ

対象年齢は低く設定してあるのですが、小ネタはプレイした子どもが後から気づくような内容も多いのではないでしょうか。

ちなみに私はこのソフトをきっかけにヘミングウェイの『誰がために鐘は鳴る』を読みました。

(メインシナリオ自体がパロディになってるのかな?)と期待して。そしたら当時苦労して読んだのに内容は一切関係なかった(笑)。

「港町シーミズ」「ゲロベップ温泉」「カザンオールスターズ」「アレヲシタイン博士」「フーリン火山」あたりはわかるのですが、

「〇〇スネーク!! カモーン!!」

なんて当時全然わかりませんでしたね。

なんかスタッフが楽しんで作ってるような雰囲気があって、嫌いじゃなかった。

緩い世界観を醸し出していたと思います。

会話の表現力

デフォルトのフォントしか使われていなかった時代に、その場面の状況にあわせてフォントの種類や文字サイズ・表示スピードまで工夫されていました。

果ては表示時のサウンド(男は低音、女は高音など)まで使い分けるなど非常に的確かつ丁寧な表現。

今でこそ声優をつかったフル音声のソフトも多いのでしょうが、なにもかもは出来ない時代だったからこその創意工夫がみてとれます。

吹き出しの形もクッキー型だったりと世界観の作り込みが細部にまで及んでいました。

これ、絵本の読み聞かせなんかと一緒なんですよ。

同じ絵本を読んだとしても「平坦に読んでしまう大人」と、その時々の「臨場感をたっぷりに乗せて読める大人」がいますよね。

この場合、子どもの物語への没入感がまったく違ってくるんですが、それと同じことが起こります。

GBという初期のプラットフォームにも関わらず本当に面白い取組みだったなぁ、と。

「面白いものをつくろう!」っていう現場の熱量を感じるんですよね。

熱量、大事。

BGM

ひとつのテーマをアレンジして複数個所でつかっているんですが、この演出好きなんですよね。

統一感もあり、音がどんどん馴染んでく感じで。

この動画はあらすじ字幕もあっておすすめです。



poco20ify「カエルの為に鐘は鳴る ピアノメドレー For the Frog the Bell Tolls Piano Medley」/youtube

7:28くらいがEDバージョンでまた最高なんですよ。

ゲーム中いろんなところで聞いているから今までのすべてが思い起こされます。

ビジュアル・モーション

発売は1992年。

ドット絵の世界で、なおかつ限られた容量の中からよくぞまぁここまで表現したよなぁ…と思います。

もちろんGBですから限界がありますが、ほんのわずかなモーションにも「手を抜かない」、という意志を感じました。

注目したいのは最終決戦。

ラスボスのバリアの間隙をぬって突進して剣で刺す、というシーンがあります。

タイミングよくボタンを押して突進し、これを何度か成功させないと倒せません。

  • うまく刺して主人公が戻ってきた場合。
  • 主人公がバリアに弾き返されて戻ってきた場合。

いずれの場合も主人公に隣接する周囲のキャラが、一瞬だけ主人公の方を向き、主人公がボスに向き直ると同時にラスボスの方に向き直ります。

たった、それだけの動き。

これがねぇ…。

「死線をくぐる主人公を支えて共に立ち向かう姿」に、…見えるんですよねぇ。

(盛り上がるBGMにも支えられ)

こういう「描写」はいいなぁ。ちょっとしたことだけど。

これ、3Dのデモシーンを作って流してもたぶん面白くもなんともない。

それは「そういう映像」でしかないですから。

しかし、「一瞬だけ(左or右)を向く。そして正面を向き直す」という「だけ」の動作だからこそ、その動作の意味をプレイヤーが考え、感じるのです。

少し話がそれますが、ゲームがCG化・3D化していく過渡期(2000年前後)において、まだレベルの低いポリゴンが猫も杓子もと採用され、このような「制約があるがゆえの描写」が排除されてしまった作品が多かった気がします。

あの時期はもう少しケースバイケースでCG・3Dを導入していった方が良かったんじゃないでしょうか。

たぶん「これからの時代はCGだ! ドット絵なんて古臭い手法では今の子どもたちはついてこない!(売れない)」なんて鼻息の荒い人が業界にいっぱいいたんだと思います。

なんとなく想像つきます。

ロードの長さも相まって、テンポを悪くしたりプレイヤーの興を削ぐケースも多かったですね。

エンディング

私はなによりもラスボス戦からエンディングにいたるまでのテキストとスタッフロール、そしてENDシーンまでの流れが好きで。

二転三転、ハラハラ、ドキドキ。

コメディにみせて、シリアス。

シリアスにみせて、やっぱりコメディ。

これまでの冒険が、出会った人々が、そして大団円のメインテーマが鳴り響く。

最後にはずっこけるオチが。

すべてが(小学生心に)最高でした。

リメイクが待望されている作品だそうですが、…どうかなぁ。

完成していて付け加える部分もそぎ落とす部分もないような気がしています。

2.SFC『46億年物語 はるかなるエデンへ』(92年)

スーパーマリオのように、順番にステージを選びながら進めていく横スクロールのゲーム。

他の生物を「捕食」することで「EVO.P」=進化ポイントをため、そのポイントを使って好きな生物の特徴をとり入れることで強くなっていきます。

もうこの設定だけでたまらないですよ。

(ちなみに私は捕食シーンの出てこない動物番組を認めません。生命の煌めきそのものでしょうが!?)

進化システム

例えば、魚類編では、「クラドセラケのアゴ」「シーラカンスのヒレ」なんかつけながら自身を強化して進めていくわけです。

こんな調子で魚からはじまり、両生類→恐竜→哺乳類とすすみ、場合によっては鳥類や人類にも進化できるようになります。

私がリメイクするなら

ゲーム自体のボリュームも少ないですし、進化の選択肢も少ないので、小品と言えば小品です。

しかし、もし自分がゲームデザイナーになるなら、ぜひこの作品をリメイクしたいとよく妄想していました。

(下記はあくまで当時「私だったらこうする」と考えていた内容です。)

(※読まなくてもいいと思います。)

  • 本編のように脊椎動物を起点にして魚類からスタートするのではなく、微生物編からはじめる。
  • 生命がミトコンドリアを手に入れるところはぜひ入れたい。「エネルギーをつくる」「移動する」「捕食する」などの単純かつ基礎的な能力を段階的に獲得していく面をプレイヤーに見せる→生命誕生の最初期を体感したい。
  • 環境選択やエサの選択など採用する生存戦略の違いで形質的に枝分かれ進化していく。
  • なんでもありの自由な進化ではなく樹形図的な系統の縛りを入れる。
  • 環境適応能力の概念を導入し、時に極端に有利・不利になる要素を盛り込む→例えば恐竜絶滅期のステージは大型恐竜より小型哺乳類の方がクリアしやすい。
  • 「繁殖力」の導入。(弱くても繁殖力が強ければ残機が多く、たくさん死んでもゴリ押しでクリアできる。逆に生態的地位が高い生物ほど繁殖力が弱く残機少ない)

などなど。

まさに無限の方向性を感じさせた作品です。

はっきり言って実際のプレイ時間よりリメイク妄想したり図書館で調べたりする時間の方が長かったですね。

この後にこれに近いようなソフトは出たのでしょうか?

知ってる人がいたら教えて欲しいです。シミュレーションのジャンルでやっても面白いと思いますね。

※今回記事を書くために検索してみたら、どうもこのSFC版より前にPC版が出ていたようです。そっちに比べると本作はコミカライズされているようで、PC版の方が面白そうですね。

BGM

BGMも「たけしの万物創世記」とか「生き物地球紀行」みたいで好きでした。

宇宙の真理の一側面をひと撫でする感じ。

※こちらもWIKIみてみたら、なんと「すぎやまこういち」氏がスタッフに入っていたようです。

イラストも藤原カムイ先生。ちょっと豪華すぎやしませんかねぇ。

3.SFC『ドラゴンクエスト5 天空の花嫁』(92年)

SFC、PS2、ニンテンドーDSなど

超有名作でプレイされた方も多いでしょう。

誕生、少年時代、青年時代、結婚、出産、等々人生のステージをバンバン乗っけてきたRPGでした。

ドラゴンを倒してお姫様を救うような冒険活劇を体験するのではなく、自立にいたる人生を体験するのです。面白くないはずがない。

シナリオ

ともあれ、シナリオ!

波乱万丈のシナリオですよ。

こんな有名作のシナリオを解説するのも野暮なので細かい説明はやめときますが、小学生時分にプレイしてとにかくシナリオにやられました。

「ぬわーーっっ!!」

初めてプレイしたRPGがこの作品だったのですが「RPGってこんなに面白いんだ!」と思ったものです。

しかし、他のRPGもやってみたらことごとく話がつまらない…。

私は本好きの小学生だったこともあってか、RPGに関してはゲームシステムうんぬんではなく、完全にシナリオ・テキスト重視でした。

テーマ

まぁ、シナリオシナリオと言いつつ結局は「世代交代」というテーマにやられたというのが本質だと思います。

つまり、「世代交代」という物語を通して「自分はなぜ生きるのか」の一端に触れたことが子ども心に大きかったのだろう、と。

「親の死」「子どもの誕生」

小学生の私はそのどちらもまだ体験も想像もしておりませんでしたが、このゲームを通して感じるもの、考えるものがあったんでしょう。

たまたまこの時期に親がレンタルビデオショップからアフリカ系アメリカ人の物語である『ルーツ』やイタリア系アメリカ人の物語である『ゴッドファーザー』など世代交代が起こる映像作品を借りてきていて、こちらにもハマった記憶があります。

もちろんこれらの作品は同列に比べるものではありませんが、私の心のフックにひっかかった根は一緒だと思いますね。

BGM

全般的に良いと思いますが、特に「哀愁物語」という曲が好きでした。



S Haya「哀愁物語 - ドラゴンクエスト5」/youtube

暗さの中に明るさがある、哀しみの中に楽しさがある曲って好きなんですよ、これに限らず。

ベートーヴェンの「月光」第二楽章とかもそんな感じ(聞きましょう)。

唯一気になるところ

不服があるとすれば。

設定では、主人公の「息子」が「伝説の勇者」のはずなのに、最終戦でなんの縛りもないところ。

なんなら「息子」を酒場に預けたままでもクリアできると思います。

ダメ。自由すぎる。設定無視も甚だしい。

私だったら、最終戦は以下の縛りを入れます。

  • 「息子」と主人公以外の人間キャラしかラスボスとの戦いに参加できない。
  • ラスボスへは「息子」しかダメージが与えられない。
  • 他の人間キャラは「息子」の補助・回復やザコを片付けるのがお仕事。
  • ラスボスの最終形態は「息子」とタイマン。
  • 逆に主人公は仲間モンスターと共に、別の場所で父の仇・ゲマと戦う。

以上のようにして、「息子」はもちろんのこと、人間キャラもモンスターキャラもどっちもまんべんなく育てておかないと苦労する、ぐらいにしますね。

モンスターが強すぎたり、人間キャラは仲間に入るのが遅かったりして、特定のモンスター以外は中々使いどころがありません。

はっきり言って「息子」「娘」以外の人間キャラを使うのは趣味のレベルでしょう。(私はピピンまで含めて必ず入れるけど)

初回のプレイヤーは単純な強さだけでいったらほとんど「ゴレムス(ゴーレム)」「主人公」「ピエール(スライムナイト)」にしかならないはずです。

そんなん全然「伝説の勇者」様ご一行じゃない。

なるべく、レギュラークラスが複数必要な状況を作った方が「モンスターが味方になる」というゲームシステム上も意味があるんですよ。

いずれにせよ。

最終戦は主人公はあくまで自分ひとり+モンスターでゲマと戦い、ラスボスとは戦わない(「息子」にまかせる)、というのが個人的には良いんじゃいかな、と。

もし自分が積年の恨みをおもっくそぶつけることになったとして、そんな姿は家族に見せたくないと思うんですよね。

しかし「人間」として醜いかもしれない姿も、仲間になってくれた「モンスター」達には見せられるから、彼らと一緒には戦える、、みたいな。

いや、おそらく主人公の性格的には恨みや醜さはあからさまには出てこないと思うんですけど、「けじめ」の一種だと思うんです。

ゲマとの間で「こと」が起きたのは主人公が家族を持つ前の話ですし、自分の手だけですべてを終わらせたいと考えてもおかしくないんじゃないかなぁ。

誰にも入ってきてほしくない、っていうか。

で、妻もそんな主人公の気持ちを察して、すごく心配なんだけど死ぬときは一緒にいたいんだけど、でも信じて見送る。みたいな。

あと、仮にも主人公は「王」なわけですから、家来(サンチョ、ピピン)にも取り乱した(個人的な)姿は見せたくないと考えてもおかしくないと思うんですよね。

うーん。やっぱりどう考えてもゲマ戦は主人公1人だわ。

まぁそもそも論なんですけど、要はもっと「息子」が「伝説の勇者」扱いされて欲しかったってことですよ。

「伝説」とか言うんだったら。

こんなんだと、凱旋して「伝説の勇者様だーー!」とか言われても、

「いや、実際のところ、パパが杖で殴って、ゴーレムが瞑想して、スライムナイトがベホマしてたらやっつけちゃったんだよ。僕は馬車にいただけだから…」

ってなっちゃって、大事な「息子」が心に傷を負いかねない。

ほんと、その辺ちゃんとして欲しい。

親があえて譲ることも、時には必要だと思う。

ファンは「ビアンカフローラ論争」とか何十年もやってる場合じゃないっつーの。

(「俺は母ちゃんの奴隷じゃないっつーの」(byジャイアン)の音声で)

参考 【結論】ビアンカフローラ論争は議論の余地なし!強さを比較するとどっちがいいのか?世界の名著をおすすめする高等遊民.com

コメント欄まで(のみ?)お読みください。

大体どこにいってもこんな調子で「ビアンカフローラ論争」じゃなく「ビアンカフローラ紛争」が起きてますから。

あえて楽しんでやってる人も多いのはわかるけど、この人らが鉢合わせたらいつか死人が出かねない。

もう一回言います。

いつまでも「ビアンカフローラ論争」やってる場合じゃないっつーの。

どのみちプレイヤーの妻じゃないんだし。

4.SFC『タクティクスオウガ』(95年)

SFC、SS、PS、PSPなど

民族の対立や階級闘争、個人的な愛憎劇も交えながら、歴史が動いていく大河感。

その断面を切り取ることに成功した作品ではないか、と思います。

シナリオ

意欲作、と言ってよいでしょう。

第一章の最後に戦意のない同胞を虐殺して罪を敵方になすりつけ、蜂起のきっかけを作ろうとするか否か、というえぐい選択肢がある本作。

虐殺するのか。しないのか。

この選択肢次第で後のシナリオが大きく変わるわけですが、興味深いのは仮に虐殺行為に加担するルートに進んだ場合であっても、問答無用で「悪」という描かれ方をするわけではない、ということ。

あくまで主人公なりの「正義」を通すための判断であり、彼が「無私の人間である」という立場は貫かれるわけです。

では「私利私欲が無ければ正義か」と言うと、それもまた別問題で。

こういった設定になんらかのメッセージ性があることは子どもの目にも明らかであり、好むと好まざるを別に注目せざるを得ない、そんな作品だったと思います。

虐殺の選択肢を設けること自体が問いかけですよね。

セリフ・テキスト

幼馴染のヴァイスはどちらのルートを選んだとしても真っ向から主人公と対立する立場になります。

例えば、主人公・デニムが「ロウルート」(虐殺支持)を選択した場合のやりとりを、少し長いですがご紹介します。

(ヴァイス)

そうさ、オレたちの敵は

民の意志を無視し、民を道具として

使おうとするヤツラなんだッ。

(デニム)

ヴァイス、おまえの言っていることは

ただのきれいごとさ。

言うだけなら、誰だって言える。でも、

本当に大事なことは言葉よりも行動だ。

現実から逃げたおまえに何がわかる!

(ヴァイス)

オレが逃げただと? ばかなッ!

逃げたのはおまえさッ!

努力することをせずに、

現実に妥協してしまったのは

デニム、おまえだぞ。

たとえそれが無駄だとわかっていても

人は前進することをやめてはならない。

本当の変革とはそういうもんだ。

なのに、おまえは放棄してしまった。

大切な夢や理想を、目先の利益のために

棄ててしまったんだッ!

(デニム)

それは違うッ!

僕は理想を棄ててなんかいないぞ!

一足飛びに理想を実現できるものかッ。

現実は少しずつしか変わらないんだ。

できることからやるしかないだろ!

なのにヴァイス、きみは現実を無視し、

急速な変革を押しつけようとしている。

それは民が望んだものか?

きみのやり方は間違っている。

あせるなッ、時を待てッ!

少しずつ変えていけばいいんだッ!!

『タクティクスオウガ』/クエスト

どちらのルートであったとしても、それぞれの登場人物の言い分は、子ども心に「一理ある」と感じることができる程度の理屈は立っています。

基本的に「原色の正義」「原色の悪」しか登場しないマンガ・アニメ・ゲームに慣らされてる子どもにとっては、やっぱり思考訓練になる部分は大きかったんじゃないかと思いますね。

私はこの辺のやりとりは当時何度か見返していました。

そうすると、

(無駄だとわかっているなら違う前進の仕方を考えた方がいいのでは…。理想に酔ってないか?)

(「現実」の唯一解が同胞虐殺かよ…。「現実」とか言うと大人っぽいけど、なんかうさんくさいな)

くらいには思いましたけどね。

でも、こういう内容を「ゲーム」というジャンルでも行ったことは良かったと思います。

ゲームの制作側の大人から「お前ら、どう思う?」と問いかけられたように受け取りました。

子どもを享楽的に楽しませようとする大人ばかりではない、ということが嬉しかったですね。

なんであれ単純化されたわかりやすいものばかり摂取してちゃダメだと思うんですよ。やっぱり。

消化に労力がかかるものを食べないと、咀嚼する力がつかない(落ちる)のは当然ですよね。

テーマ

どのルートであったとしても主人公は主人公なりの「自らの正義」を突き進むわけですが、選択によっては戦争が終結した後に殺されるなど、含蓄が多いというか、まぁ「歴史・的」だなぁ、と思うわけです。
起こりそうなことが、ちゃんと起こる。

なので、弁舌さわやかに自らの正義を語る各登場人物の主張はあくまでもその登場人物個人の主張。

制作側の用意した主題(テーマ)は、各々のルート(ロウ、カオス、ニュートラルと3本に枝分かれする)すべて含めてトータルでこの物語をどう受け取るか、ということになるのでしょう。

全てが丸く収まるような、一本道の「正しさ」を示してはこないわけですから。

シーン

印象的なシーンということで特に「二人のランスロット」というエピソードは取り上げておきたいと思います。

(暗黒騎士ランスロット)

いや、違う。被害者でいるほうが楽なのだ。弱者だから不平を言うのではない。

不満をこぼしたいからこそ弱者の立場に身を置くのだ。彼らは望んで『弱者』になるのだよ。

(聖騎士ランスロット)

ばかな・・・。人には自分の人生を決定する権利がある。自由があるのだ!

(暗黒騎士ランスロット)

わからぬか!本当の自由とは誰かに与えてもらうものではい。

自分で勝ち取るものだ。しかし民は自分以外にそれを求める。

自分では何もしないくせに権利だけは主張する。

救世主の登場を今か、今かと待っているくせに、自分がその救世主になろうとはしない。

それが民だっ!

(聖騎士ランスロット)

人はそこまで怠惰な動物じゃない。ただ、我々ほど強くないだけだ。

(暗黒騎士ランスロット)

・・・聖騎士よ、貴公は純粋すぎる。民に自分の夢を求めてはならない。支配者は与えるだけでよい。

(聖騎士ランスロット)

何を与えるというのだ?

(暗黒騎士ランスロット)

支配されるという特権をだっ!

『タクティクスオウガ』二人のランスロット/クエスト

望んで『弱者』になる。

自分がその救世主になろうとはしない。

支配されるという特権。

あたりのセリフはやっぱり刮目せざるを得なかったですよね。

よく子供向けの番組にでてくるような、「世界征服」が目的な割に「統治」の概念をもっているとは思えない悪の親玉の言葉とは一線を画すわけです。

子ども心に「支配」の意味、「統治」の意味を考えさせられたやりとりとなりました。

記憶に残るシーンはここだけではなく、選択肢によっては女性キャラが強姦されたり、仲間がアンデッドにさせられて殺し合わなければならなくなったり、自らの不用意な言葉で家族が自殺してしまったり、と主人公の選択一つでどんどんひどいことが起こるゲームです。

あまり倫理に守られた世界観ではなく、はじめてゲームに「アダルト=大人」を感じた作品でした。

チャプター名

「駆り立てるのは野心と欲望、横たわるのは犬と豚」というカオスルート第三章のチャプター名は中二病的なセンスをくすぐるというか、カッコよく感じてしまっていた自分がいたことは隠さないでおきます。

しかし、最終エピソードは意外にもシンプルかつ含みのない「手をとりあって」というネーミングだったことも良かったですね。

これ、ロウ、ニュートラル、カオスのどのルートを通ったとしてもこのタイトルになる、というのが良いんですよ。

作品自体の副題も「Let Us Cling Together」です。

一方的な「正しさ」だけを声高に主張してこないゲームですが、こういう部分に制作側がのせたテーマの片鱗が見えていると思っています。

どんな道を通ったとしても、「手をとりあって」生きていくしかないではないですか。

ゲームシステムについてはまったく触れませんでしたが、こちらも奥が深い作りになってます(おざなりですみません)。

5.PS『リンダキューブアゲイン』(97年)

PCエンジン、PS、SS、PS3

もとはPCエンジンで発売された『リンダキューブ』(95年)のPS版がこちら。

PCエンジン版はプレイしたことがないので『リンダキューブアゲイン』の紹介をいたします。

※本家『リンダキューブ』の方がエグいらしいです。

以下、『リンダキューブアゲイン』版の話をしていますが、便宜上『リンダキューブ』と呼ぶことにします。

素晴らしいゲームシステム(というよりコンセプトかな)が印象的な作品だったと思うですが、その狂気的なシナリオ(とイラスト・アニメシーン)のインパクトがデカ過ぎて、得してるのか損してるのかわからない作品です。

そのインパクトがゲーム界に明確に楔を打たせたとともに、一般層への広がりを妨げた面もある気がしています。

それはそれで良いんでしょうけどね。

シナリオ

「面白いシナリオでも面白くないシナリオでもゲーム一本作るのにかかる費用は一緒だから面白いシナリオにしとく」(大意)というのは本作ゲームデザイナー・シナリオの桝田省治氏がおっしゃっていたと思うのですが、まぁそれを地でいくような作品。

「愛し合う二人はいつも一緒、そいつが何よりだ」 のあまりに文字通りな展開には度肝を抜かれました。

親父が娘のスカートめくって「どーだ、どーだ、サチコでどーだ!?」と迫ってくるのもきっつかったですね。

あぁ、はい。

わかりやすく言うと「面白い」です。

システム・コンセプト

私はこれが抜群だったと思います。

「あなたは世界を救えない」

「どう足掻いても隕石が落ちてきて星が滅びる」

と制限時間が設定された中で、できる限り(あんまり可愛くない)動物たちをオス・メスのつがいで集め「ノアの方舟」的宇宙船に乗っけて、星を脱出する、という設定。

この「動物収集」の面白さは『ポケットモンスター』(96年発売)にも通じるところがありますが、リンダのPCエンジン版は95年に出ているので『ポケットモンスター』よりも早いんですよね。

『ポケットモンスター』は可愛さに重きをおいて大成功しているわけですが、「収集の楽しさ」は『リンダキューブ』の方がはるかに上だったろうと思います。

種によるオス・メスの特性・希少性の違い、季節・時間帯による出現場所等の違い、罠を用いた方が良い場合、力技でやる場合などなどプレイヤー側の知識や工夫の余地が大きいシステムになっていました。

また動物たちは加工することで武器にも防具にもなり、これは『モンスターハンター』(04年)の楽しさにもつながります。オス・メス1匹ずつ捕まえて終わりではなく、強化目的や収集目的などのやり込み要素となりうるわけです。

そういった大ヒット作の原初的な面白さの要素を内包したこのシステムが面白くないわけがないんです。

先見の明があるというか、狂気のシナリオも相まってある意味奇跡的な作品だと思います。

ついでに言うと、時間経過とともに星の人口がどんどん少なくなっていく設定も良かったですね。

お店が利用できなくなったり不便な部分もあるんですが、パートナーであるリンダとだけは、いつでもどんな時でも一緒っていうのが逆にくっきり浮き上がっていく演出だったと思います。

世界に二人だけ。

構成

また構成が素晴らしかった。

動物収集面でのカタルシスとシナリオ上のカタルシスが同時に高まるように作られているんですよ。

『リンダキューブ』は大きくは3本のシナリオがあり(だから「キューブ」なのでしょうか)、スタート時の設定までは同じですが、それぞれ別の世界線の話です。

この「シナリオを3本に分けた効果」を考えてみたいと思います。

まず、動物収集の難易度

時間は限られていますが、シナリオA「MERRY XMAS」、シナリオB「HAPPY CHILD」のマップにそれぞれ固有の移動制限を加えることによって、動物収集の難易度を下げています。

時間が限られていますので、探さなければならない面積が狭くなることは当然低難度化につながるわけです。

面白いですよねー。

空間的制限を加えることで時間的制限のストレスが緩和できるんですよ。

シナリオA「MERRY XMAS」で当該シナリオ特有の動物たちの特性を覚え、シナリオB「HAPPY CHILD」ので当該シナリオ特有の動物たちの特性を覚える。

そしてシナリオC「ASTRO ARK」ではすべての移動制限が解除され、これまでの知識をフルに生かして含めた多くの動物たちの収集にチャレンジする、という三段構え。

つまりA、B二つのシナリオが動物収集面での最適なレッスンシナリオとなり、コントローラーで操作するキャラ(ケン)のレベルではなく、実際にプレイする人物のプレイヤー(アニマルハンター)としてのレベルを上げることになるのです。

非常に自由度の高いゲームでもありますので、知識を身に着けた上でプレイすることになる3番目のシナリオではサクサク効率的に動物収集・自キャラの強化が可能になります。

シナリオA「MERRY XMAS」とシナリオB「HAPPY CHILD」をプレイした時のような「習性や出現場所、強さがまったく未知の動物を追う」というストレスは大幅に軽減されるわけです。

次に、シナリオの相関性

最初のシナリオ「MERRY XMAS」で陰鬱な気分にさせられます。

次のシナリオ「HAPPY CHILD」でまたぞろ陰鬱な気分にさせられます。

きっとあなたの心の中の甲本ヒロトが叫びだします。

「気ーーがーー狂ーいーそーおーーーー」

しかしシナリオC「ASTRO ARK」ではじめの二つのシナリオで起こった悲劇がそれぞれ前向きに解消されていきます。

全般的にポジティブな内容となっており、謎解きもあいまって、プレイをすすめればすすめるほど胸のつかえがとれていくはずです。

以上のように1本、2本とやって総仕上げ的な3本目をプレイすることで、動物収集面でのカタルシスとシナリオ面のカタルシスが同時に感じられるような構成となっているんですね。

いきなりシナリオCもできますが、ここは制作側のおすすめにそってシナリオAからプレイした方が良いでしょうね。

新しいシナリオになるたびにレベル1からのスタートになるわけですが、3回遊んでも飽きが来ない、素晴らしい構成・バランスだったと思います。

ゲームデザイナーの腕の見せ所ってこういうところな気がしますね。

6.PS『幻想水滸伝2』(98年)

水滸伝をモチーフに108人の仲間を集めて戦乱を生き抜く少年の物語。

シナリオ、戦争パート、ミニゲーム(特に料理勝負!)、収集要素、BGMなどなど。

大きな目で見て、非常に完成度の高い作品だったと思います。

登場人物

「ビクトール」「シュウ」など少年である主人公をとりまく主要な大人のキャラクター(登場人物)がちゃんと「大人」でした。

多くはないんですよ、子供向けのゲーム・マンガの登場人物でそういうのは。

どうしても幼稚な世界観の中に生きる、ビジュアルや外連味重視の使い捨てのキャラが多いので。

ビジュアル

98年はPS後期といって良い頃でしょうか。ここから先はCGによる3D表現へと舵が切られますので、技術的にドット絵の表現力が一番高かった時期といって良いんでしょう。

PSというハードでは、やはりCGによる3D表現ではなくやはりドット絵が向いていたんだと思います。くるくるよく動いてましたし、ローディングが少なくプレイが快適でしたね。

BGM

オープニングテーマの東野美紀氏の「回想」。

短い曲ではありますが、これがもう素晴らしかった。

ゲーム内でアレンジされつつ要所要所に使われているわけですが、私的にはゲーム史に残る一曲と思っています。

(youtubeなんかでもピアノ演奏してる方が多いですね)


lydia hime「ピアノで幻想水滸伝Ⅱ「回想」 PIANO Suikoden2 "reminiscence"」/youtube

またエンディング曲「La passione commuove la storia」(情熱は歴史を動かす)は歌が入るわけですが、このバックコーラスの人達はあえてプロの歌手ではなくゲーム制作におけるスタッフの方々を起用している、とのこと。

「戦争は終わった」という内容の歌を民衆が高らかに歌い上げるところなので、「プロのテクニック」ではなく「民衆の熱」を重要視したのでしょう。

このエピソードからも作品を大事に作ろうとしているのが伝わってきます。

7.PS『サガフロンティア2』(99年)

総合的な意味で言えば、改善の余地も少なくない作品だったんだろう…、とは思います。

しかし、毎度チャレンジングなことをしかけてくる「サガ」チームが「歴史」をテーマに取り組んだ本作は、とてつもないポテンシャルを秘めていました。

舞台設定の広さと深さは特筆すべきで、いまでも設定集にはプレミアがついています。

「架空の歴史」を騙るためには、細部にわたる準備が必要と判断したのでしょう。

制作側の「人類の歴史」への敬意が感じられる作品、と言えるのではないでしょうか。

しかしそれだけに、特に「表」の主人公であるギュスターヴ編については、その設定をもっと活用し、単純にボリュームを増やして欲しかった…、と切に思います。

(直接は描かれなかった「史実」を後から聞いて、認識を改めることが数回…。

テーマ

制作側によれば、「『表に残る歴史』と、人々に記憶されない『裏の歴史』があり、その両方を描く作品を作りたい」、ということだったそうです。

「歴史年表の行間を読ませる」ような作品を作りたかった、ともどこかで読んだ気がします。

歴史とは出来事の羅列、年号の暗記ではなく、まさにその「行間」を手繰るところに意義があるのでしょう。

シナリオ・テキスト

全体のシナリオは言うに及ばず、そのテキストには(子供である)プレイヤーへのメッセージが見え隠れしていたのではないかと思います。

具体的に触れていきます。

舞台は中世に似た世界。「誰でも術が使えて当然」の「術社会」。

この社会で「術が使えない」というのは大変なことで、「術不能者」は差別的な扱いを受けていました。

「術不能者」であることが発覚した7歳の時。フィニー王国・ギュスターヴ12世の息子・ギュスターヴ(13世)はそのことを原因に母とともに国を追放されてしまいます。

その追放が伝えられるシーンでの、ギュスターヴ13世の母・ソフィーの言葉がこちら。

(ソフィー)

アニマの力が無くとも、ギュスターヴは生きています。

私に宿り、私が育み、私が産み、私が乳を与え、私が育ててきました。

あなたにとっては王家を継がすためだけの存在でしょうが、

私にとっては命を分け合った大事な息子です。

捨てることなど出来ません。

『サガフロンティア2』ギュスターヴ追放/スクウェア

(なにかが琴線に触れ、タイプを打つ手が止まっている)

・・・

・・

『ドラえもん』の中でも、親がどんな思いで自分を
生んだのかわかるシーンがありますが、

『ドラえもん』読むとクズになる?んなわけない教育的エピソード6選

プレイヤーである不特定多数の子どもにこういったシーンを見せることはなにがしかの意味はあったと思います。

またこちらのシーンではやさぐれるギュスターヴとその周囲との関係が描かれます。

鳥を追い払い、花を散らすギュスターヴに、母・ソフィーが平手を放ちます。

(ソフィー)

抵抗できない弱い者をいじめるなど、

恥ずべきことです。

(ギュスターヴ)

どうせ僕なんか、術もアニマも無い、

人間のクズなんだ!

(ソフィー)

<平手打ち>

ギュスターヴ、見なさい!

木々が花を咲かせるのは術の力ですか?

鳥が空を飛べるのは術が使えるからですか?

術が使えなくても、

あなたは人間なの。

人間なのよ、

ギュスターヴ!!

『サガフロンティア2』ギュスターヴ12才/スクウェア

人は手持ちのカードで戦うしかありません。

嘆いてもわめいてもできないことはできない。

ないものはない。

では、自分にはなにがあるのか。そして、なにができるのか。

ギュスターヴは徐々に現実を受け入れ、自らの戦いをはじめるのです。

(鍛冶屋)

ギュスターヴ様、なんでまた剣を鍛えようなんて考えたんですかい?

(ギュスターヴ)

俺は術が使えない。

だから、自分の力で出来ることを見つけなきゃいけないんだ。

『サガフロンティア2』ギュスターヴと鍛冶屋/スクウェア

欠落感、コンプレックスは時に強烈なエネルギーの源となり得ることを、ギュスターヴは行いによって証明していきます。

彼は後世に「鋼の13世」の名を残し、やがては術中心であった社会全体に革命的な変化をもたらし、戦争と産業のパラダイムシフトを起こしていくのでした。

ギュスターヴ13世の生涯については、以下の動画が大変詳しいです。↓↓


patty patty「【サガフロ2】サンダイル年代史【鋼鉄の覇王 ギュスターヴ13世】」/youtube

これが、「表」の物語のほんの一部。

さらに「裏」であるナイツ一族の物語があり、それらが徐々に交わっていき…と本当にスケールの大きな、舞台をひろく、ひろく、使った作品だったと思います。

しかし、あまりにプレイヤー側に与えられる情報が断片的過ぎたのではないか、という思いは拭いきれません。

もちろん、制作側はあえてそのように作った部分もあったんだと想像します。

そのことが醸し出す美点も、やはりあったと思います。

とは言え(ゲーム本編で)あますことなくこの世界を体感したかった…、というのが本音ですね。

モチーフ

もうひとつだけ具体的なシーンを取り上げたいと思います。

それはギュスターヴが凱旋を果たし、かつて自分が生まれた城に入城した際のこと。

自分を含めた家族の肖像画を発見するシーンです。

それぞれが描かれた年齢からギュスターヴが追放される直前に描かれたと思われ、追放のきっかけとなった「ファイアブランドの儀式」の成功記念と国民へのお披露目のために製作されたのではないか、と考えられます。

※実際は、儀式は失敗し母とギュスターヴは追放されたわけですが。

その肖像画は、実弟・フィリップによってギュスターヴの顔だけが無残に切り裂かれていました。

ギュスターヴ12世一家の破れた肖像画

『サガフロンティア2』兄弟再会/スクウェア

  • 兄弟の不仲
  • 肖像の破壊
  • 構図

大きくは以上の3点と直感から、私はこのネタ元をローマ皇帝・カラカラと共同皇帝にしてその実弟・ゲタのことだと思っています。

順を追って解説しましょう。

ローマ皇帝のカラカラは継承問題もあり、弟・ゲタと超絶仲が悪かったわけですが、ある日ついに母の目の前でゲタを殺し、その上でゲタを死刑以上の措置である「ダムナティオ・メモリアエ(記憶の破壊)」に処します。

「ダムナティオ・メモリアエ」は悪帝として名高いネロやカリグラですら免れており、ローマ皇帝でこの措置を受けているのはドミティアヌス(コロッセオ完成させた皇帝の弟)とゲタの2人だけだそうです。

その刑によりゲタは様々な公式記録から削られたわけですが、こういった幸せな家族の肖像のようなレリーフもこのような形にゲタだけが削られています。

「幸せな家庭」

ダムナティオ・メモリアエ/フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

私はこのカラカラとゲタの肖像をはじめてみたときに、忘れることができない強烈なインパクトを受けました。

家族間の憎悪。

その表出した形として、あまりにも露骨で、あまりにも象徴的過ぎたからではなかったかと思います。

(そんなに嫌いなら、いっそ全部壊せよ…)

と思わなくもないのですが、「憎悪の対象だけを削り、他は残す」という行為にこそ意味があったのかもしれませんね。

「削ったことも隠す」ということではなく、「削ったという事実は残す」というのが確かになんとも刑罰的で、人間のやることという感じがします。

さて、せっかくなので、並べて見比べてみましょう。

ギュスターヴ12世一家の破れた肖像画

「幸せな家庭」

『サガフロンティア2』兄弟再会/スクウェア|ダムナティオ・メモリアエ/フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

王の雰囲気や、中央の人物の角度なども含めて私はあまりにも酷似しているように感じます。

別角度から検討してみます。

この作品は、もともと歴史好きな人が丹念に歴史を洗い直してクリエイトしているのは誰の目にも明らかだと思います。

っていうか普通「歴史」を素材にするなら大なり小なり必ずそうします。

そして、西欧中世的な世界観でなおかつ先史時代からさかのぼって設定を練っているわけです。

この状況で。

「ローマ史」に手を付けないということはありえない。問答無用。

そしてその作業の中で、たまたま「カラカラとゲタ」を見逃すということもまた考えられません。

ローマ史以外でも珍しくありませんが、「不仲の王族の兄弟」というゲーム本編そのまんまの設定、そのまんまの素材ですよ。

そして、一度でもあのホラーじみたレリーフを見て、その印象を拭い去ることができるでしょうか?

この例に限らず、この『サガ・フロンティア2』のエピソードには現実の歴史を参考にしたとおぼしきシーン・エピソードがいくつか登場します(私が気づいていない例もあると思います)。

かなりの歴史資料を下敷きに構築された世界であることは明白であり、この作品の大きな魅力の土台になっているのではないか、と思っています。

手間かけてウソついてると思いますよ。

世代をまたぐ小道具

例えばナイツ一族の「血」が2代、3代と受け継がれていくことが、本編の物語の軸となる本作ですが、受け継がれていったのは「血」ばかりではありませんでした。

ひとつは「物」

王家の象徴であり、王位継承の儀式に用いられる「ファイアブランド」。

ギュスターヴ本人やその甥・フィリップ2世の不幸の引き金となった剣です。

またこの「ファイアブランド」を目指して「鋼の13世」ギュスターブ本人により鍛え抜かれた鋼鉄の大剣「ギュスターヴの剣」。これらは巡り巡ってナイツの3代目であるヴァージニア・ナイツたちの元に集います。

さらにもう一点は「智」。この場合は「ミーム」と言ってもよいのでしょうか。

ギュスターヴの幼少期の師であり、世界的な術師でもあるシルマール先生は多くの弟子を残しました。

「裏」の歴史の主人公であるウィル・ナイツを身近に守り続けたナルセス(さん)。

「表」の歴史の主人公であるギュスターヴに長年つかえたヴァンアーブル。

そしてその弟子・ミーティアはヴァンアーブルのいいつけでヴァージニア・ナイツの元へ。

遺伝子として受け継がれた「血」。

人の想いがこもった「物」。

数多くの人を介して伝わってきた「智」「ミーム」。

歴史のうねりの中でこれらが集い、最期の戦いへと主人公たちを誘います。

「歴史」をテーマに受け継がれていくものの軸が「血」だけではなかった点はやはり良かったですね。

人の歴史は「血」によってのみ紡がれるものではなく、歴史を体験してきた「物」や目に見える形としては残らない「智」「ミーム」としても伝えられていくものだと解釈しました。

この重層的構造が良いんですよ。

舞台装置的な意味での小道具として非常に有効だったと思います。

受け継がれるものが「血」だけだったらやっぱりテーマの届け方としては弱かったと思うんですよね。

血統主義を主張した作品ではないわけですから。

ビジュアル

その水彩画風のビジュアルは当時から評価が高かったです。

ちょうど(まだ技術的に発展途上な)CG・3Dが流行っていた時期でしたので、かえってアンチテーゼのようにも見えてカッコよかったですね。

BGM

まー、良い。

良いよね。

浜渦正志氏が音楽スタッフだったようですが、メインテーマ曲が状況にあわせた様々なバージョンにアレンジされ、ことあるごとに作中で使用されます。

この演出方法は意外と賛否両論あるようなんですが、私は原曲の出来もあいまって最高だったと思いますね。

こちらも個人的にゲーム史に残る一曲

ミュシャだって商業製作の作品が「芸術作品」として後世に残っているわけですから、ゲーム作品だってゲームの評価とは別に残っていくと面白いと思うんですけどね。

以下紹介の動画はひとつの動画内でアレンジされたものも入っていたので参考までにリンクをつけます。


筑波大学ピアノ愛好会「【2017年度オータムコンサート】サガフロンティア2メドレー」/youtube

8.PS『俺の屍を越えてゆけ』(99年)

私にとっての「ゲームの概念」を変えた、と言っていいと思います。

私が「ゲーム」というジャンルの作品に対して最も感嘆したのはこの『俺の屍を越えてゆけ』です。

システム・コンセプト

「世代交代」

これがこのゲームシステムの胆であり、また「テーマ」そのものでもあったのだと思います。

「短命の呪い」「子どもが作れない呪い」という2つのギミックを使って、「世代交代RPG」というコンセプトを成立させました。

「短命の呪い」は短期的に世代交代させていくためには必須の設定です。

普通の人間の寿命の単位でゲームを進めると、10世代もプレイすれば「時代」そのものが移り変わらないとおかしくなってしまいます。

「1ターン=1ヵ月」と設定し、寿命は長くても2年程度に設定することで「同一時代」の中で何世代もの世代交代を体験できる、というわけです。

また「子どもが作れない呪い」は人間の生殖ルール・倫理その他の枷を外すためにつけられた設定なのではないかと思います。

つまり「人間同士では子どもが作れない」ゆえに神と「交神」して子孫を残すわけですが、そのお陰でいろんな制約から解き放たれるわけですね。

  • 「神」との間にできた子だから、生まれてくるまでに10ヵ月もかからない、とか。
  • 「神」の遺伝子を受け継ぐから、どんどん強くなることができる、とか。

いわば、人間版『ダービースタリオン』であり、遺伝子を品種改良していきながら、一族全体を強くしていくわけです。

で、これ。

やっぱり、本当に「人間」同士でやってしまうと、倫理的にいろいろと問題があったんだろうと思います。

そこを「神」としてしまうことで、なんとなくクリアしてしまったところもあるんでしょうね。

テーマとシナリオ

さて、本題です。

私はもともと本を読むのが好きな子どもで、絵本、紙芝居、小説、マンガなど保育園や学校の中ではかなりの物語狂の方だったと思います(図鑑等の知識欲が満たされる本も好きでしたが)。

物語というものはただのお話しではありません。

そこに制作者が語る「テーマ」があり、「テーマ」は物語に内包されて私たちの元に届けられます。

絵本であれ、小説であれ、マンガであれ、映画であれ、そしてゲームであれ。

その物語に内包された制作者側の「テーマ」「主張」が適切な形でうまく私たちの心の奥まで届けられた時に「心が動く」、大げさに表現すれば「感動」が起こるのだろう、と思います。

当然「テーマ」を運ぶことが出来るのは「シナリオ」「お話」「物語」。

「感動」するのは「物語」に対してするものだと考えていました。

これまで語ってきたゲームも、原則的には「シナリオ」に対して面白さや価値を感じる部分が大きかったわけです。

(例外はこの中で言えば『46億年物語』)

そこに吸引力があるからこそ没入できるのであり、作業的なプレイも苦ではなくなるのですね。

作業部分だけだったら『テトリス』や『マインスイーパー』の方がシンプルかつロジカルで面白いです。

(つまり、私は「シナリオ」という切り口を重視するタイプのプレイヤーだった、ということ)

したがって。

「シナリオ」が優れているのであれば、その媒体は極論「ゲーム」である必要はなく、「小説」であっても「映画」であってもよいはずです。

人によって「ゲーム」に求めるものは異なるでしょうが、私はゲームを「シナリオ」「物語」を運ぶ媒体のひとつとして見る部分が大きかった。

私が「このゲームは面白かった」と言う場合は、

「物語が面白く、ゲームシステムはそれを邪魔してなかった」

という意味合いとほぼ同義だったと思います。

逆は起こりえない。

システム的に面白いものがあったとしてもシナリオがダメなら「つまらない」としか言えなかった。

どっちらけるような話、まったく共感できない言動を繰り返すキャラクターを見せつけられながらのプレイは苦行でしかない。

いっくら戦闘システムや世界観等が優れていたとしても、です。

そこを楽しめるほどゲームそのものやファンタジー(仮想世界)が好きなわけじゃなかった、ということなんでしょうね。

「面白いゲーム」≒「シナリオが面白いゲーム」か?

「面白いゲーム」≒「シナリオが面白いゲーム」

その考えをまったく覆してしまったのが『俺の屍を越えてゆけ』でした。

私にとって、はじめて「システム」そのものに「テーマ」が内包された作品であり、「ゲーム」という媒体でなければ届けられない方法で「テーマ」を届けた作品だったと思います。

つまり「ゲームであらねばならない必然性があった」。

(ここからネタバレです)

・・・

・・

さて。

色々色々あって、やっとクリアしたとき。

スタッフロールのところで、鬼籍に入った一族の者たちが始祖から順番にどんどんどんどん紹介されていくわけですよ。

これまでの功績などと一緒に。

その時に、これまでのプレイを思い出すわけです。

こいつは突出して強い奴だった、とか。

あ、家出しちゃった奴だ、とか。(リセットしてやり直した)

こいつが初陣で死んでしまって、しばらく一族全体の戦力バランスが崩れてしまったんだよな、とか。

影が薄かった奴だけど、死ぬ間際の一言で意外と恨みごと言ってたな、とか。

パラパラパラパラ思い出すわけです。

物語のメインテーマとともに。

その途中でうっすらと気付きはじめるんですよ。

「…これか!」と。

いろんな奴がいた。

いろんな風に生きた。

そして、皆、死んだ。

そして、私が、生まれた。

そういうことなんだな、と。

(やっとプレイの最初に自分の本名と生年月日を入力させられた意味がわかりました)

つまりは、いろんな人物のいろんな生があって、そのつらなりの中で私が生まれている。

たかがゲームではあっても、そこを仮想的に可視化する効果がこの作品にはあったわけです。

それはシナリオの力ではなく、システム・コンセプトがテーマを語った、ということになろうかと思います。

むしろシナリオの方では「プレイヤーだけのオリジナルの物語」を堪能できるよう、あまり刺激の強い物語にせずにあえて平易にすることでバランスをとった、とも言えるのではないでしょうか。

いや、なんとなくそういうことを狙っているんだろうというのはわかっていましたが、実際に自分がゲーム1本クリアしてみてこれまでの苦労を実感しながら噛み締めてみると、感慨深いものがありました。

そして。

翻って、自分はどう生きるのか。

どう生きるべきなのか。

そういった部分まで改めてプレイヤーに問うような意図もあったんじゃないか、と思います。

ゲームクリア時の最期のテキストを見てそう感じました。

桝田省治氏はゲームばっかりやってるゲーマーが嫌いだそうですが、この作品においても、

「ゲームだけじゃなくて、自分の人生をがんばれ。」

ということを直接言ってるんじゃないですかね。

そういえば高橋名人も

「遊びはファミコンしか知らない寂しい大人にはならないでください」

と言っていました。

ゲームを作り出した初期の時代の人達は、やっぱり大人や社会人として分別があったんだと感じます。

高橋名人の言う「寂しい大人」が実際に出現して、その大人たちがいかにプレイヤーの「時間を奪うか」「金を奪うか」に腐心してゲームを作っているんじゃないか、という気もしないではありません。

そういうゲーム(プレイしてないけど「面白い」であろうことは否定しません。大の大人が夢中なのだから)が好きな人達からすれば「ほっとけ」ってところでしょうが、まぁ分別を持ってプレイしたいものですね。

9.PS『高機動幻想ガンパレード・マーチ』(00年)

良い意味で、実に「オタク」的な作品だと思います。

ロボット活劇。

ツンデレの女の子。

と、ある種のステレオタイプではあったわけですが、まあぁぁぁ、その裏設定の膨大なことと言ったら!

緻密に「嘘の」別世界を作り出すことに成功していると思います。

設定

私はマニアックな設定集って結構好きなんですよ。

世界全体を嘘で構築するためには、丁寧に嘘をつく必要があります。

そうすると逆にリアルな部分はリアルにやる必要があるわけで、そのバランスを読み解くことが楽しいんですよね。

(以下ネタバレあり)

・・・

・・

このゲームのスタート画面が、実は「他世界(『ガンパレード・マーチ』の世界)にアクセスするためのシステムの起動画面」だった、という設定は大変凝ってて好きでした。

実際に我々が生きる、ゲームの外のこの世界と『ガンパレード・マーチ』の世界をつなぐ機器としてPS(プレイステーション)があり、アプリケーションをもって『ガンパレード・マーチ』の世界にアクセスする、という理解になるでしょうか。

プレイヤーを強制的にゲームの中に引きずり込む、とても面白い仕掛けでしたね。

NPCのキャラクターが、画面の中にいる自キャラではなく、画面の外にいるこちらに直接話しかけてくる、というのは初めての体験です。

戦闘システム

さて、設定だけでご飯が何杯か食べられそうなので、これ以上は突っ込みませんが、もう一つピックアップして取り上げるとすれば、その独特の戦闘システムが挙げられます。

『俺の屍を越えてゆけ』の項でに書いたように、基本的に私はゲームにおいては「シナリオ重視の人」ということになろうかと思いますが、この作品に関してはその戦闘システムの面白さにハマりました。珍しく。

端的に言って本当に難しかった!

特に初回プレイはコツがつかめず、まぁ自軍の仲間が死ぬこと死ぬこと…。

クリア時にはひとり欠け、二人欠け、三人欠け、実に閑散としたリアルな前線基地になっていたと思います。

ただ、一度コツをつかみはじめてからは本当に面白く、いかに相手の動きを読むか、一手先、半歩先にいくか、いかに無駄なく最善の行動をとり続けるか、を自分なりに考えることが可能となり、戦闘行為そのものが刺激的なものに変わりました。

ある種・囲碁や将棋のような面白さも感じましたが、これは口で説明するのは難しいですね。

このように戦闘そのものは大変頭を使うところもあるのですが、そういったものが不得意だったり慣れなかったりという場合も、普段からパイロットを鍛えたり、機体を整備しておくことで、ある程度雑な動きであっても戦闘に勝利しやすくなります。

ゴリ押しでも勝てなくはない、というバランスが良かったですね。

いや、これは面白かった。

私は普通かちょっと下手なくらいだと思いますが、たぶん上手い人は異常に上手いと思います。

きっとアムロ・レイの再来みたいな人も世の中にはいるんじゃないですかね。それほど奥深さを感じました。

10.PS2『ワンダと巨像』(05年)

PS2、PS3、PS4

同じく同じ製作チームが手掛けた『ICO』(表紙がデ・キリコみたいですごく良い)とどちらか迷ったのですが、『ワンダと巨像』を最後に選んでこの記事を終わりたいと思います。

シナリオ

最初に紹介した『カエルの為に鐘はなる』は楽しいものがたくさん詰まった「おもちゃ箱」に例えましたが、この作品は「一個の宝石」のように、シンプルで美しい作品だと思います。

  • 「少女の亡骸」をかかえ、「禁断の地」へ旅をする少年・ワンダ。
  • その地には16体の巨像があり、それらをすべて破壊すれば願いが聞き届けられる…。
  • ワンダは愛馬・アグロを駆り、すべての巨像の破壊を目指す。

3行でほとんどすべてを説明できるほど、余計な贅肉がないシナリオ。

シンプル過ぎて、もはやシナリオというか寓話的。

そして、寓話では「禁忌に触れれば不幸になる」ことはつきものなんですね。

「死んだ人間を生き返す」というのは、ほとんどの「お話」で禁忌中の禁忌。

日本神話の「黄泉比良坂」、ギリシャ神話の「オルフェウス」、その他「猿の手」や映画「ペットセメタリー」など枚挙に暇がありません。

復活がポジティブに扱われる「キリスト」の例の方が珍しい。

「死者の復活」は古今東西・人類の共通の願いであり、同時に永代かなってこなかった夢想であったからこそ、寓話上では「禁忌」とされたのかもしれませんね。

※叶わぬ夢は見るな、未練は断ち切れ、という意味で。

『ワンダと巨像』もご多分にもれません。

巨像を屠るたびに生気を取り戻していく少女の肌とは対照的に、ワンダの血色はどんどん悪くなっていきます。

巨像を壊せば壊すほど、この物語が不幸に向かって進んでいる予感は強くなるばかり。

この「不穏さ」が作品の魅力につながっていたとも思います。

世界観

人の手が入らなくなって久しいであろう「荒地」や「廃墟」といった場所に住まう、自らも廃墟の一部かのような苔むした巨像たち。

彼らはワンダの手によってガラガラと崩壊し、周囲と同様の石くれ・廃墟の一部と化していきます。

この。

妙な。

カタルシス。

「最期の一撃は、せつない」というのがキャッチコピーでしたが、よく言い表しています。

あくまで「破壊」ではなく「崩壊」なんですよ。

すべてを主体的に破壊したのではなく、元より崩れ去ることが決まっていたものの、最期の一押し、最後の手助けをしたような、そんな感覚。

「やっつけてやった喜び!」じゃなくて、「あ、、、崩れちゃった…」

そういう切なさ。

シナリオの項目でも少し触れたとおり、この話は「少女の再生」の物語であると同時に「自身の葬送」の物語でもあったと思うのです。

巨像に突き立てる刃は、そのままワンダの心を刺しているようで、何とも言えない痛みがありました。

実際、巨像を倒せば倒すほど、ワンダの身体は巨像たち(正確に言えばその中身)と同化していっているわけで、ワンダが進むのは「黄泉比良坂」であり、16体の巨像はそれぞれが一里塚であったのでしょう。

「崩壊と再生」。

それらが醸し出す「哀愁」がこのゲームが表出してみせたものなのかな、と考えます。

美し哀しかった。

つまり。

面白かった。

【GB~PS2まで】ゲーム人生15年でのベストゲーム10選・まとめ

GBから1本、SFCから3本、PSから5本、PS2から1本。

で計10本のご紹介でした。

私がいつからいつまでゲームにハマっていたのかが大体わかりますね(笑)

思うに、ゲーム作品とゲーム開発費の関係って多分2000年前後くらいが一番良かったんじゃないのかな、という気がします。

開発費がそこまで大きくないので、いろんな作品にチャレンジできる、という意味で。

失敗作も数多くあったかもしれませんが、独創的であっと驚くアイデアの作品はこの頃が一番多いと思います。

どんどんプラットフォームが高性能になっていくにつれて、ソフト一本辺りの開発費が膨脹し「絶対に転べなくなった」んじゃないでしょうか。

だから挑戦的なことはできない。新しいこともできない。

新しいことはやらない代わりに、旧ファンは取りこぼさないようリメイクを作る。

ビジュアルで引き込む。エロで引き込む。

難しいことはライトユーザーの獲得に失敗するのでやらない。

単純。手軽。バカでもわかる。グラフィックに力点を入れる。

海外ゲームはまた事情が違うかもしれませんが、なんとなく日本のゲーム業界についてはそういう印象があります。

今はスマホゲームが隆盛ですが、こちらの方は開発費は据え置きプラットフォームに比べそう高くないと思います。それだけにワンアイデアの作品は作りやすいんでしょうが、ちょっとでも重厚なテーマってやはり扱い辛いと思うんですよね。

スマホゲームは1作もやったことないから完全にイメージだけで語ってますけど。

用途的にそういうことが求められると思えないんですよ。

したがって、今現在、私がやりたいと思うようなゲーム自体がほぼでなくなってしまっているよなぁということなんだと思います。

他が忙しいということももちろんありますけど。

はぁぁ、ここまで約2万5千字。ちょっと長いですが、一度まとめておきたかったのでスッキリしました。

ここまでお付き合いくださり、誠にありがとうございます。

いろいろな形でリメイクされている作品も多いので機会があったらプレイしてみてください。

以上。

ありがとうございました。

あわせて観たい

『ドラゴンクエスト5 天空の花嫁』『サガフロンティア2』『俺の屍を越えてゆけ』など「世代交代」というテーマは私のひとつのツボなのですが、同じく世代交代というテーマで2つの映像作品をおすすめします。

「ROOTS(ルーツ)」

アレックス・ヘイリー原作

アフリカで暮らす少年、クンタ・キンテが奴隷狩りにあい、アメリカに連れてこられそして…、という物語

初代、二代目、三代目と時を経る中で時代も生活も変わってゆき、やがて南北戦争が起こる。

一口に言えばそんなあらすじになるのでしょうか。

私はこのドラマの中のひとつのセリフがいつまでも忘れられません。

同じくアフリカから連れてこられた女性のいる農場まで逃げ、彼女を連れて逃げようとするクンタ・キンテに、その女性はこう言います。

「早口でアフリカの言葉をしゃべるのはやめて。今じゃ考える時も英語なのよ」

絶句したのはクンタ・キンテだけではなく、私も同じでした。

「人生が奪われる」

そのことがどういうことか、ということの一部を一言で表すシーンだと思います。

クンタ・キンテは絶対にアフリカに帰るという強烈な意志があった(つまり自身との会話がアフリカの言葉で継続的になされ続けた)からこそ、自然にアフリカの言葉を手放さなかったのでしょうが、普通の人間はそれなりに順応性が高い生き物なのかも知れません。

クンタ・キンテとその一族が、奪われた人生をどのように取り戻していくか、注目です。

Amazonプライムにもなく(2019/9/2時点)ブルーレイ版、DVD版が出ています。強くおすすめします。

ゴッド・ファーザー

マリオ・プーゾ原作

超有名作ではありますが、意外と観ていない方もいるのではないでしょうか。

イタリアンマフィアのゴッド・ファーザー→ヴィトー・コルレオーネからマイケル・コルレオーネへと世代が変わり、そしてマイケルがマフィアの世界から足を洗う(『ゴッドファーザーPART3』)までの間にマイケルも、そしてアメリカもどんどん変わっていきます。

一発で主人公・マイケルを演じるアル・パチーノのファンになった映画です。

この記事の本文でも記載した通り、初見は小学生だったのですが「レストランのシーン」ほど息をのむような映画体験をしたのは私ははじめてでした。

この映画を「マフィア映画」「かっこいい」ととらえている人もいるのかもしれません。

が。

私にとってはあくまでも「ファミリー映画」です。

いわゆる「ファミリー映画」が持つポジティブな一側面を描いているわけではないだけで、言葉通りの意味で「ファミリー映画」と言えるでしょう。

厳格で偉大な父、ヴィトー。

粗野で無節操だが家族思いの兄、ソニー。

頼りないけれど、同じく家族思いで優しい兄、フレド

唯一、父の跡目を継ぐという重圧に耐えうる能力と胆力を兼ね備えた、マイケル(そしてその孤独)。

この映画は妹・コニーの幸せな結婚式からはじまり、楽しそうに踊る母やテシオ・クレメンザなどの組織幹部のポジティブなシーンが描き出されるところからはじまる、というのがいかにも象徴的(というよりもアイロニー)です。

「家族」の物語、というのは常に幸せに彩られたものとは言えないはず。

能力・性格、それぞれがまったく違う人間である中で、多くの利害関係も発生していくわけですから当然ですよね。

ラストシーンの、閉じられていくドアとマイケルの妻・ケイ(ダイアン・キートン。好き)の表情がたまらない、いや、いたたまれないのです。

この映画が終わった後の家族の未来を象徴している(そしてそれは続編で証明している)と思います。

また、父・ヴィトー・コルレオーネの死に様は人間の死に方の最上のものの一つと私は考えています。

陽の当たる菜園の中を、幼い孫とたわむれ、心筋梗塞で倒れる。そのまま死亡。

ヴィトー自身もまた家族思いの人間でしたから、家族の「その後」を見ることもなく他界できたという意味でも「幸せな最期」だったと言えるかもしれません。

Amazonプライムにおいて(2019/9/2時点)無料で観ることができます。

必見です。