著者:吉原三等兵(@Twitter)
児童虐待がテーマの一作。
リアリティの高い独白形式の言葉で母や妹との確執が、自身の子への虐待に繋がっていく様がたんたんと語られます。
私自身は家族間での大きなトラブルを抱えたことがなく、この作品に対する「強い共感を持った」タイプの読者ではありませんが、なにかやはり想起させられるものがありました。
少なくとも兄弟・姉妹がいた人なら、その一片くらいは共感できる要素があるのではないでしょうか。
普遍的な部分を汲み取ることに成功している作品だと思います。
同様の体験がある方の心に響くことはもちろんですが、子育て中の親御さん(特に2子以上の)にもおすすめのマンガです。
わが身のふるまいにも改めて気を払い、背筋が伸びますよ。ほんと。
『ホライズンブルー』これぞ職人芸。あまりにも高いリアリティのクオリティ←今ここ
『ホライズンブルー』恋愛の参考書にも最適。自己肯定感の低い女性は美人でも恋愛弱者
『ホライズンブルー』児童虐待-壊れたままの心はより弱い存在への攻撃に向かう
それでは、よろしくお願いします!
目次
あまりにも高いリアリティのクオリティ
独白の文章があまりに真に迫っており、「間違いなく自身の経験をマンガ化したな」と勘違いしたくらい。「あとがき」読んで実体験ではないと知ってびっくり。
母の寝姿はいつも背中側
例えばこの描写。
(春子)
けれども
夜中に目をさまして見るのは母の背中でした
妹に添い寝して 決してわたしのほうには向いてくれない
(近藤ようこ『ホライズンブルー』「三話」/青林工藝舎)
さりげないですが、2コマ目がすばらしいと思いませんか?
母親の頭や首・背中がコマいっぱい(つまり視界いっぱい)に広がって、幼い主人公・春子と母親との物理的な距離の近さを思わせます。
しかし、母親は常に妹の方を向いて寝ているのです。
物理的な距離に比して、心理的な距離はあまりに遠い。
上手い…。
こんな内容は絶対に自らの経験がないと描けないと決めつけていました。
実際には取材かもしれない。想像かもしれない。友人の話かもしれない。ここだけ本当に自分で体験したことかもしれない。
いろいろ考えられるんですが、初見で読んだ当時は間違いなく経験談だと思っちゃいましたね。
普通は無理なんですよ、体験以外でこのレベルの表現を持ってくるのは。
些細すぎて、想像力だけではなかなかここまで達さない。
しかし、このエピソードがクッキリと子どもの心に爪痕を残すことは想像に難くありません。「些細な大事」を描きだした、卓越した表現力だと思います。
いえね。
体験談だとしたらそう驚くことでもないんですよ。そりゃあ、こんな経験は心に残るでしょうから。
しかし、そうでないとするのであれば驚きを感じざるをえないって話です。
"独白"のリアリティの出し方
もう一例あげます。
(春子)
そういえば
母が妹を生むために入院している間
家には祖母が来ていて
夜泣きしたわたしを一晩中背負ってあやしてくれました
わたしは一才を少し過ぎたばかりでそんな記憶があるはずがないといわれそうですが頭の上で豆電球がゆれているのが見えました
もしそれが人生で最初の記憶だとしたら悲しいと思います
(近藤ようこ『ホライズンブルー』「三話」/青林工藝舎)
実は、偶然にも私もまったく同じ記憶があるんです。
春子とおなじく1歳くらいの頃のことでした。
祖母が私を寝かしつけてくれる時に抱っこヒモをつけて背中におぶってくれていたのです。ウトウトとしたその目の先に、照明のヒモ先にある白いプラスチックが揺れていたのを確かに覚えています。
私の兄は小児喘息だったので、親の手間もそちらに取られがちだったのでしょうね。祖母がよく寝かしつけをしてくれました。
もう祖母は亡くなりましたが、幸い私にとってはあたたかな記憶のひとつとなっています。
ですが。
この物語の登場人物・佐伯春子にとっては、その後の人生もあいまって、悲しい記憶としてカウントされることとなってしまいました。
さて、このコマで独白形式のリアリティを高めるのは「そういえば」と話を切り出して、このエピソードをたった1コマに詰め込んだところ。
やろうと思えば前後も含めてもっとページ数をつかって表現することもできたハズなんですね。
わかりやすさを追求するのであれば、1コマに詰め込まず普通にエピソード化すればいいんです。
でも、それをしない。
情報を詰め込むこと。そしてその後にポツリ「悲しいと思います」というなんのひねりもないシンプルな感想を付け足すことで、本当にいま目の前でしゃべっているかのような効果を生む。
マンガの表現って本当に多彩です。
おそらくこの口述式の表現はカウンセリングを受けている状態を表していると思われるのですが、本当にうまいと思います。
さりげないですけど、必要な表現を必要なようにしてくるんですよね。
ここに限らず。
空白もデザインのうち
この表現なんかもくるものがありました。
(春子)
人前で母が私を恥じるたびにわたしは絶望した
(近藤ようこ『ホライズンブルー』「二話」/青林工藝舎)
この作品を読んだのは大学生の頃。特に女性作家についてはまだまだ読む量が足りていなかった時期ですが、こういった空白を上手に使った表現が新鮮で印象的だったことを覚えています。
(女性作家の方がこういう表現はうまいですよね。男性の作品はやはり描きこんでしまうことが多いと思います)
さほど大きくない字を右に寄せ、他は空白。
春子の「世界で独りだけ」のような孤独や絶望がさめざめと伝わってくるようでした。
例えばこのコマの空白部分をすべて埋めるように「人前で母がわたしを恥じるたびにわたしは絶望した」と太字で入れたとしたらどうでしょうか?
強い感情・強い主張で心が埋め尽くされているような印象を受けますよね。
そうではなく、ただただ孤独と絶望しかない心情を、小さな字を右隅に寄せ、空白を生むことで表現する。
空白もデザインのうちという言葉を思い出しました。
「悲しい」と言えば大ゴマいっぱいに「涙」を描いて扇動をはかる表現が多い昨今、改めてハッとさせられる表現です。
『ホライズンブルー』これぞ職人芸。あまりにも高いリアリティのクオリティ・まとめ
すみません。『ホライズンブルー』の紹介しようと思ったら表現部分の話だけで1800文字超えてしまいました。
それだけ表現も素晴らしいという話なのですが、技術の巧みさだけでなく、テーマも非常に優れた作品です。この作品については、また仕切り直して続きを書きますね。
それでは、また!
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