著者:吉原三等兵(@Twitter)
『HUNTER×HUNTER』キメラアント編をメルエムを中心に書く感想記事。
3本目にして今回でラストです。
ここでは特に『幽☆遊☆白書』における仙水(せんすい)らと比較をしながらすすめていきたいと思います。
▶『HUNTER×HUNTER』「少年マンガ」は二度死んだ。キメラアント編の感想・考察-仙水と樹のその先へ①/ヨシハライブラリ
▶『HUNTER×HUNTER』「少年マンガ」は二度死んだ。キメラアント編の感想・考察-仙水と樹のその先へ②/ヨシハライブラリ
▶『HUNTER×HUNTER』「少年マンガ」は二度死んだ。キメラアント編の感想・考察-仙水と樹のその先へ③/ヨシハライブラリ←今ここ
それでは、よろしくお願いします!
目次
仙水・樹のアンサーのおさらい
あらためて、ここでおさらいしたいと思います。
一連の連続記事の①にあたる、▶『HUNTER×HUNTER』「少年マンガ」は二度死んだ。キメラアント編の感想・考察-仙水と樹のその先へ①/ヨシハライブラリにおいて、『HUNTER×HUNTER』の「キメラアント編」は『幽☆遊☆白書』の「仙水編」の別解であり、
また、さらに歩を進めた解である、と主張をたてました。
では。
「仙水編」における、少年マンガ的な「暴力の螺旋階段」とそれに対する解はなんであったか、確認します。
- 最強を思わせた戸愚呂を超える桁外れの強さ(浦飯幽助)
- 幽助を超える、聖光気を身にまとったS級の人間(仙水忍)
- 人間の限界を超える戦いを一方的に終わらせた、浦飯の覚醒(魔族大隔世)
- [解]異次元への離脱(世界の否定)
強いキャラが、さらに強い敵によりピンチとなり、秘められた力が覚醒して、強敵をやっつけた。
つまるところ「親や先祖の力が覚醒して俺TUEEE」…という少年マンガの様式美のような展開をたどります。
また一つ、また一つと「少年マンガ」という暴力の螺旋階段を一段上がったところで、樹(いつき)はなんと言っていたか、思い出してみましょう。
(樹)
これからは二人で静かに時を過ごす
オレ達はもう飽きたんだ
お前らは また別の敵を見つけ戦い続けるがいい
冨樫義博『幽☆遊☆白書』17巻 「仙水の遺言!!の巻」/集英社
それは「強い敵をさらに強くなって倒す→もっと強い敵が登場する→さらに強くなって倒す」という「修羅の世界」からの離脱でありました。
少年マンガの悪役としての一つのアンサーであり、読者へのメタな答えでもあったのではないかと解釈しています。
「仙水編」と「キメラアント編」の解の突合
では「キメラアント編」ではどうであったか。
- 人類最高レベルの暴力(ネテロ会長)
- それをも超える生命の頂点(蟻の王メルエム)
- 至高の領域に到達する究極の暴力の応酬を、無慈悲に断ち切る科学の力(≒核兵器)
- [解]生きる意味の発見(世界の肯定)
飽くなき暴力の螺旋階段を「≒核兵器」というさらに身も蓋もない手段で駆け登りました。
少年ジャンプの三大原則「友情・努力・勝利」における勝利だけを無粋に抜き出した、どっちらけの結末。(賞賛しています)
超サイヤ人に代表される「子供の夢」のような覚醒ネタってテンション上がりますよね。
しかしここでは「大人の現実」というリアリズムの刃で、この世に生まれて間もないメルエムを突き刺したのです。
「親や先祖の力が覚醒して俺TUEEE」よりもさらに高次元の虚しさがそこにありました。(賞賛しています)
(ネテロ)
蟻の王 メルエム
お前さんは 何にもわかっちゃいねぇよ…
人間の 底すら無い 悪意を……!!
冨樫義博『HUNTER×HUNTER』28巻 No.298「薔薇」/集英社
あぁ、底無しの悪意。
「銃が人を殺すのではない、人が人を殺すのだ」という言葉を思い出します。
「蟻の王」メルエムは、人類の殺意に殺されたのです。
では、なんの救いも無かったのか、と言えば読者の皆さんはご存知の通り、"キリスト的復活"を遂げたのちに"力"では、たどり着くことのできない世界へと到達します。
なぜ仙水や樹とは異なる世界へ行き着くことができたのか。
それを知るにはもう少し言葉を書き足さねばなりません。
「キメラアント編」はオブラートに包まれた"黒の章"
さて。
"黒の章"
覚えている方はいらっしゃいますでしょうか。『幽☆遊☆白書』に登場する、仙水を闇落ちさせたビデオテープです。
蔵馬の口を借りればこのようなものになります。
(蔵馬)
黒の章には 今まで人間がおこなってきた罪の中でも
最も残酷で非道なものが
何万時間という量で記録されています
(中略)
普通の人なら
五分ともたず人間の見方が変わるでしょうね
冨樫義博『幽☆遊☆白書』14巻 「黒の章!!の巻」/集英社
実際に"黒の章"を観た御手洗の言葉はこうです。
(御手洗)
目の前で子供を殺された母親を見たことあるか!?
その逆は!?
殺ってる奴らは鼻唄まじりで いかにも「楽しんでます」って顔つきだ
わかるか!?
人は笑いながら 人を殺せるんだ
お前だって きっとできるぜ
気が ついていないだけでな!!
冨樫義博『幽☆遊☆白書』14巻 「黒の章!!の巻」/集英社
お前だって きっとできるぜ
これは実際に冨樫義博先生が、読者である子供に向けてぶつけたかったセリフでしょう。
だって体重乗ってますもん。
そして。
思い浮かぶのは、ネテロの「人間の底すら無い悪意」という言葉と『HUNTER×HUNTER』30巻No.311「期限」のほとんど絵だけで表現される数ページ。
蟻に食い散らかされたカブトムシと、それを蟻ごと踏みつける人間の足。
戦争。飢餓。汚染。欠損。貧困。暴力。疫病。虚飾。飽食。富…。
これは、人間社会の暗い部分だけを描くだけでなく、先進国世界もセットで描くことで「お前だって他人を踏みつけて今、そこにいる!」と読者側が突き付けられていると解釈できます。
伝わりますか?
御手洗の言う「お前だって きっとできるぜ」を一歩進めて「お前だって すでにやっている」と指摘しているんですよ。
さらに御手洗の言葉を借りれば「気が ついていないだけでな!!」ってやつです。
このシーンにおいて、パームはなんと言っていたか振り返ってみましょう。
(パーム)
あたし達は 残酷よ
蟻と何一つ 変わらない
いえ それ以上に
冨樫義博『HUNTER×HUNTER』30巻 No.311「期限」/集英社
これらを鑑みれば、
「仙水編」と「キメラアント編」には通底するものがあった、と考えることができます。
つまり「キメラアント編」には"オブラートに包まれた黒の章"という側面があり、「人間って生きてる意味あるのかな?」とその存在意義を読者(子供)に問うています。
前々回の記事(▶『HUNTER×HUNTER』「少年マンガ」は二度死んだ。キメラアント編の感想・考察-仙水と樹のその先へ①/ヨシハライブラリ)でもとりあげた樹の言葉を振り返りましょう。
この樹のセリフこそが、キメラアント編における冨樫義博先生の立場になるんじゃないでしょうか。
(樹)
オレは彼が傷つき汚れ堕ちていく様をただ見ていたかった
「キャベツ畑」や「コウノトリ」を信じている可愛い女のコに無修正のポルノをつきつける時を想像するような下卑た快感さ
冨樫義博『幽☆遊☆白書』16巻 「魅きつける理由!!の巻」/集英社
要は「キメラアント編」は読者である子供たちに対して思想的な意味で「無修正のポルノをつきつける」ようなマネをやっているわけですよ。
吉原三等兵
ゼノの"龍星群(ドラゴンダイヴ)の"まきぞえをくらって結果的に「小の虫」の立場においやられたコムギや、手段を選ばない漆黒の復讐に燃えるゴンも、それらの装置のひとつと読むこともできるかと思います。
「善と悪」の二次元世界に生きる仙水のように無垢な読者(子供と一部の大人)のものの見方をいったんシャッフルさせたかったのではないでしょうか。
なぜそんなことをする必要があったのか。
メルエム本人の言葉を借りれば「何が大事なものかを 何も知らなかった」から。
つまりメルエムにとっての「人生の意味」に触れるためには、読者はいくばくかでも"黒の章"に近い体験をする必要があるからではなかったか、と私は解釈しています。
なぜならば。
残酷な蟻と同様に人間もまた残酷で罪深い生物です。
そうであることを自覚した上でたどり着く"答え"にこそ、価値があるからではないでしょうか。
宮崎駿『風の谷のナウシカ』中の「精神の偉大さは苦悩の深さによって決まる」というセリフをここで引用しておきます。
考えてみてください。
これ、キメラアント側の内面を描かず、人類側の邪悪さも描かず、勧善懲悪を押し出した一方的な描写の上で敗北したメルエムが、最後に「余はこの瞬間のために生まれて来た…」って言っても絶対に説得力ないですから。
人間とそれ以外の生き物の違い
人間の価値・人生の価値を問う、ということは、必然的にそれ以外の存在との比較が行われることに他なりません。
『幽☆遊☆白書』では以下のような言葉が提示されています。
人間の方がタチ悪い
というお話
冨樫義博『幽☆遊☆白書』19巻 「探偵業復活」/集英社
また、先ほどとりあげたパームの「私たちは蟻以上に残酷である」という言葉もピックアップしておきます。
これらは大テーマ的には岩明均『寄生獣』に分類されるものでしょう。
大人も子供も一度は腰を据えて考えてみたい題材です。
さて。
人間とそれ以外の生き物の違いってどこにあるのでしょうか?
もちろん高度に発展した文明など明らかな違いもあるのですが、それらは生命としての本質的な差と言えるでしょうか?
私は小学生の頃から、
「人間がやることは動物もやる。」
「動物がやることは人間もやる。」
というモットーを持っています。
「万物の霊長」「ホモ・サピエンス(ラテン語で"賢い人・わきまえた人"の意)」を自称する我らは、他の生物よりも優れた存在なのでしょうか?
逆に、人間以外の生物は汚れなく美しき生命で、人間には価値がないのでしょうか?
私は前述のとおり、両方違うと思います。(ちょっと話がズレてくるので詳しくは語りませんが。)
暫定的な結論としては、
「本質的に両者は変わらないが、小賢しい知恵の分だけ人間がタチ悪い」
と、おおむねパームと同じ立ち位置にいるのではないか、と考えております。
ま、その辺の答えは人それぞれ色んな回答があるとして、重要なのは読者はそこを立ち止まって一度考えた上で、メルエムとコムギの「終わり」を見届けるべきだ、という話がしたいのです。
メルエムとコムギの「終わり」に際して
仙水と樹は「修羅の世界」「暴力の螺旋階段」から抜け出して、二人だけの安息の場所を得ることを目的としました。
いわば「脱出」であり「逃避行」です。
「世界からの駆け落ち」と言ってもいいかもしれません。
メルエムとコムギは、、、どうだったのか。
正直「最低でも別途記事に起こさなければ表現しがたい」という思いは今もぬぐえないのですが、それでもザクッと乱暴に書き表せば、「到達」だったと思います。
二人で、この世界で、完璧に、
「到達」した。
仙水と樹が「脱出」したいと強く願った、残酷で救いの無い、この世界の中で。
「王」の立場から離れ。
「暴力の螺旋階段」から降り。
「蟻」だとか「人」だとかの自意識も忘れ。
あるがままの一個の生命と一個の生命として。
二人で「到達」した。
ただお互いがお互いのままに干渉し合うこと。
誤解を恐れずに言えば、これはもうセックスです。
精神のセックスです。
(絶対誤解する人がいるから、無難にピエタあたりのモチーフを使ってまとめようかと思ったのですが…これが一番しっくりくるな、と。なるべく深い意味で受け取っておいてください)
そう。
「武」「暴力」という領域でメルエムとの干渉を試みたネテロの心中に芽生えた「出会えたこれまでのすべてに感謝」「♥」という感情に近かったのではないかとも推察されます。
(ネテロ)
感謝するぜ
お前と出会えた
これまでの 全てに!!!
冨樫義博『HUNTER×HUNTER』28巻 No.291「自問」/集英社
つまるところ自分と相手とそれらを取り巻いてきた世界とこれまでの人生のすべてを肯定する領域に、二人で、「到達」したのではないか、と。
そういう風に私は思います。
だって見てくださいよ。
(メルエム・コムギ)
…そうか 余は ― ワダすは きっと
この瞬間のために ― この日のために
生まれて来たのだ…!! ― 生まれて来ますた…!
冨樫義博『HUNTER×HUNTER』30巻 No.317「返答」/集英社
おそらく、この瞬間。
二人は世界のすべてを、肯定しています。
これまでのすべてを、肯定しています。
なぜなら、この日、この瞬間に到達するために、これまでのすべてがあったことを理解したのですから。
もしかすると、二人にとっての軍儀は、ネテロにとっての祈りに似ていたのかもしれません。
論理の究極を求めて深く自身の中に潜る作業は、内的自分と対峙する瞑想や祈りと近いとは言えないでしょうか?
私にはネテロが語る祈りの言葉が、メルエムとコムギのことを指すようにも聞こえるのです。
(ネテロ)
祈りとは 心の所作
心が正しく形を成せば想いとなり
想いこそが実を結ぶのだ
冨樫義博『HUNTER×HUNTER』28巻 No.297「最後」/集英社
個々人がたどり着いた"答え"と作品としての"答え"
最後に、それぞれがたどり着いた"答え"と作品としての"答え"の違いを振り返って、これらの記事を終わりたいと思います。
まずはそれぞれの"答え"を以下の4つに分けて整理します。
- 仙水と樹=世界の否定
- メルエムとコムギ=世界の肯定
- 『幽☆遊☆白書』=世界の肯定(ミクロ)
- 『HUNTER×HUNTER』=否定も肯定も無い(マクロ)
①仙水と樹の答えは「世界の否定」であり、②メルエムとコムギの答えは「世界の肯定」であったことはここまでで語った通りです。
メルエムのあのラストを「蟻から人になった」と解釈する向きもあるようですが、そういうことではないと思いますね。
キメラアント編中においては「いえ、それ以上に」(byパーム)ともあるわけですから、「人になった」はむしろ否定的なニュアンスになってしまうでしょう。
岩明均『寄生獣』でも『幽☆遊☆白書』でもそうなのですが、人とそれ以外の生物の本質的な違いなんて無い(「キメラアント編」では「いえ、それ以上に」)、というところが着地点ではないか、と。
そもそも、なんでそう「人」って価値観に拘るんですかね。
「人」って偉いんですかね。
あのシーンは、メルエムにとって「蟻」と「人」との境目が無くなった、という描写ではないかと私は思っています。
王ではなく、蟻でもなく、人でもなく、「メルエム」という一個人として、「コムギ」という一個人とあらためて出会った。
だからこそ、二人が最初に出会った軍儀盤を前に、もう一度、自己紹介からはじめたわけでですよね。
蟻だとか人だとかではなくて、「個」としての「世界の肯定」なのです。
再度宮崎駿『風の谷のナウシカ』からの引用になりますが、そこで言う「全にして個 個にして全」という概念に近い領域ではなかったか。
あの時二人がたどり着いた境地は、たぶん、そういう次元だと思います。
では。
個々人の答えはそれでよいとして、作品としての答えはどうだったのか。
③『幽☆遊☆白書』の最終回においても、やはり「世界の肯定」がアンサーであったことは、前々回の記事(▶『HUNTER×HUNTER』「少年マンガ」は二度死んだ。キメラアント編の感想・考察-仙水と樹のその先へ①/ヨシハライブラリ)でも記載しました。
あらためて文章で表現しなくとも、この二コマだけを見れば十分かな、と思います。
冨樫義博『幽☆遊☆白書』19巻 「それから…」/集英社
『幽☆遊☆白書』の最終回においては視野を狭くミクロ的(浦飯幽助とその仲間たちレベル)に世界を肯定していることがポイントです。
世を拗ねた仙水や樹に、「そんなことばっかじゃねーよ」って語りかける感じですかね。
では。
④『HUNTER×HUNTER』という作品においてはどうだったのか。
これは『幽☆遊☆白書』のように個々人の目線にはもっていかず、さらに視野を広げてマクロ的(「キメラアント事件」の数字的解釈と政治的決着)に俯瞰し、肯定でもなく否定でもなく政治的ダイナミズムのうねりの中にすべてを飲み込ませていくラストだったのではないか、と思います。
物語の最後にマクロ視点を提示しておくことで、個々人がたどり着いた境地(メルエム&コムギ)を霧消させ、ある種の諦観じみた空虚さを漂わせて終わらせることに成功しているのではないでしょうか。
うーん…。
この辺り、やはり冨樫義博先生は岩明均先生と思想的に近いところがあるんじゃないかと思いますね。
『ヘウレーカ』では個として傑出したカルタゴのハンニバルやローマのマルケルスを描いておきながら、それを英雄譚にせずに歴史の波に飲み込ませるラスト。
『ヘウレーカ』を未読の冨樫義博先生ファンにはおすすめしておきます。
(ダミッポス)
ふ…… あんたらはすげえよ
でも
もっと……
ほかにやる事ァないのか?
岩明均『ヘウレーカ』「最終話」/白泉社
やがて すべての目撃者は死に絶え
二千年が経過した・・・・・・・・・
(岩明均『ヘウレーカ』「最終話」/白泉社)
余談・フィナーレの蛇足問題
はい。皆さん。
ここでちょっと、『HUNTER×HUNTER』の30巻を手元に用意してください。
あれだけ完成度の高かった「キメラアント編」……のフィナーレを飾るNo.318「遺言」。
この回もものすごいハイクオリティなんですが、ちょっと終わりの164p~167Pの合計4Pに注目でーす。
紙資料の人はページ隅の「165」のナンバリングを目安に探して下さーい。
電子書籍の人はよくわかりませーん。
ネテロの遺言ビデオレターのところからなんで適当に探してくださーい。
で、いいですか? 用意できました?
用意できた前提で話しますよ。この4Pね…。
蛇足!
いる? これ。
余韻を完全に台無しにしてない?
次の回にまわせばいいんじゃない?
なにこのコスプレ十二神将。
なーに、ネテロの鼻毛のクローズアップ現代。
これ、163Pもしくは161or159Pで終わるのとはまったく印象が違ってくるからね!
台無しも台無しで空気読まないにも保土ヶ谷区。
もう一回聞くけど、いる? これ。
いるんです!!
必要なんです。これがまた。
私はこれ、わかってて崩してきてると思うんですよねー。
ネテロの鼻毛アップと、次エピソードのNO.319「抽選」の(これまでの雰囲気からするとひどく場違いな)可愛い十二支イラストで確定的と言ってもいいんじゃないですか?
わざとだよ、これは。
動機はいくつかありうると思ってるんですが、効果として「カタルシスの中和」が起きていることはここで指摘します。
「あの」「感動的な」「ラスト」の空気をシラケさせる効果は確実にあります。
そこは異論を認めない。
例えば159Pでエピソードが終わったら、どうか。
冨樫義博『HUNTER×HUNTER』30巻 No.318「遺言」/集英社
完全にピエタにおけるキリストとマリア。
これだと、メルエムとコムギの物語が神話性を帯びるレベルで圧倒的に完結してしまいますね。
おそらく「物語の断絶」というか、そういうことを避けたかったんだと思います。
「キメラアント編」のクオリティが高すぎることの弊害とも言えるかもしれません。
読者の燃え尽き症候群対策ということもあるかもしれませんが、私は『HUNTER×HUNTER』をメルエムとコムギの物語からもう一度彼ら以外の元へ引き寄せる意味があったのかもしれない、と現段階では考えています。
いや、正直なところ確信的にそう思っているわけではないのですが、このやり方が「意図的」ということだけは勝手に確信してます。
冨樫義博先生が、こんなミスは犯さない。
「キメラアント編」であれだけの激闘を描いてすぐ次の「選挙編」。
その「茶番劇」ぶりを印象付け、より「キメラアント編」と対比させることも狙いだったのかもしれませんが、この辺りについては色んなの人の意見を伺ってみたいですね。
『HUNTER×HUNTER』「少年マンガ」は二度死んだ。キメラアント編の感想・考察-仙水と樹のその先へ③・まとめ
「少年マンガ」が繰り出すエンターテイメントとしての「暴力の螺旋階段」。
その力の行使のカタルシス、勝利の快感を吹き飛ばし、私にとっての「少年マンガ」を殺した作品が2つありました。
冨樫義博『幽☆遊☆白書』と同じく冨樫義博『HUNTER×HUNTER』です。
仙水と樹。メルエムとコムギ。
彼ら・彼女らは「この世に二人だけ」の領域に行き、二度と戻っては来ませんでした。
仙水と樹の二人は、世界に「No」と吐き捨て。
メルエムとコムギの二人は、世界に「Yes」とつぶやいて。
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長文をここまでお読みいただき、誠にありがとうございました。
いやー、マンガって本当に素晴らしいですね。
それでは、また!
『HUNTER×HUNTER』の他記事
▶『HUNTER×HUNTER』能力バトルもので感じていた”違和感”を冨樫先生が払拭した件/ヨシハライブラリ
▶『HUNTER×HUNTER』「少年マンガ」は二度死んだ。キメラアント編の感想・考察-仙水と樹のその先へ①/ヨシハライブラリ
▶『HUNTER×HUNTER』「少年マンガ」は二度死んだ。キメラアント編の感想・考察-仙水と樹のその先へ②/ヨシハライブラリ
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この記事の中であつかった『風の谷のナウシカ』『幽☆遊☆白書』を紹介しておきます。
宮崎駿『風の谷のナウシカ』
この記事とのからみで言えば土鬼(ドルク)の神聖皇帝の兄弟の話や、トルメキアの王様はぜひ押さえておきたいところ。
例えば「失政は政治の本質だ!!」などあなたの脳をシェイクしてくれることうけあいです。
「キメラアント編」と『風の谷のナウシカ』の比較はいつかやってみたい気がするんですけどね。
ここの記事でも紹介しているので、よろしければこちらもどうぞ。
▶【大人になるまでに読みたいマンガ100選シリーズ】小学校・高学年編/30選/ヨシハライブラリ
冨樫義博『幽☆遊☆白書』
戸愚呂編までは、まぁまぁ、はいはい、少年マンガかな、というところなのですが、仙水編や魔界トーナメント編の終わりなんかみると、やっぱり冨樫義博先生は洒脱だな、と思いますね。
いろんな少年マンガなどから取り入れている要素も多く、今読めば色んな気づきを持つ人も多そうです。
機会があったら読んでみていいと思いますね。