『母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。』身近な家族の死を受け入れるということ②

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著者:吉原さん(@yoshihara_san

末期がんの母を看取る、作者の体験的マンガ作品『母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。』の記事の続きです。

さて。

周囲の人間の心の準備ができていようといまいと人間は死ぬときは死ぬのですが、母にもついにその日が近づいていました。

ターミナル期(終末期)

母はいわゆる「ターミナル期」に突入し、主人公は病院に泊まりこんで身の回りを世話をします。

あとは亡くなるのを待つだけの看護や介護はどんな気持ちで行われるものなのでしょう。

私はいまだ体験したことがありません。

先があって先がないような。最後の孝行のようでいて死への水先案内のような気持ちなのでしょうか。

(生命維持を止める判断を家族が下さなければならない場合もあるでしょう)

しかし、いつ死ぬかわからない人間の「その時」を待って、昼夜を問わずつき添い続けるということは精神・体力ともに非常に消耗することだろうということは容易に想像できます。

僕たち母子(おやこ)は-

いつまでこの病室にいて 何を待っているんだろう…

母のターミナル期
(新潮社/宮川さとし『母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。』第7話「病室の結婚式」)

いつまでここにいるのか。何を待っているのか。

そんなことはわかりきっています。

「亡くなるのを待っている」んです。

が、具体的に言語化したくない。できない。

母の死が間近のこの時点でも、いまだに受け入れがたい事実だったのでしょうか。

それでも最愛の母は死に、主人公には「母のいない世界」が待っていました。

母のいない世界

ごく近しい人間がいなくなってしまった世界。

それは「これまでの世界」とは大きくなにかが欠けている、もはや「別の世界」であり、その別世界と折り合いがつかないうちは、どうしてもしっくりこない。

そんなものではないでしょうか。

城山三郎先生のエッセイに『そうか、もう君はいないのか』という作品があります。

「君」とは亡くなった妻のことを指しているのですが、たった一言で置かれている状況や感情・想いがすべて伝わるすばらしいタイトルだと思います。

ふとした時に最愛の人の名を呼んでしまうが、静寂しか返ってこない。そして、もはや「君」は永遠に帰ってこないことを思いだす。

この物語の主人公にとっても、『母のいない世界』はやはりどこか勝手が違っていたようです。

死んだ母の携帯アドレスが消せない
(新潮社/宮川さとし『母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。』第2話「僕はまだ母のアドレスを消せないでいる」)
母の死後、実家は少しずつ腐敗するようだ
(新潮社/宮川さとし『母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。』第12話「実家と父親」)
母との思い出が地雷のように埋められている地元
(新潮社/宮川さとし『母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。』第11話「地元に埋まっている地雷のような思い出」)

私と祖母の場合

またも引き合いにだしますが、私にとっては「祖母の死」がそうでした。

子どもが多く、しかも共働きで忙しかった母に代わって、母としての役割を担ってくれることも多かった祖母との結びつきは、一般の家庭よりも強い方だったかもしれません。

祖母が亡くなってからしばらく。祖母のいない「別の世界」との折り合いがついていないうちのこと。

ふとしたきっかけで、思い出は心を責めたて悲しさが追いかけてきます。

が、私の場合。

心の齟齬(そご)を埋めてくれる存在がすぐそばにありました。

息子です。

祖母との暖かな思い出が、自分を悲しみに浸そうとするとき。

ハッと息子のことを思えば、「この思いやりを自分も息子に与えてあげたい」と思えます。

一緒に見た懐かしい風景を見た時も「この景色を息子にも見せてあげたい」と思えます。

そう考えることで、楽しかった思い出は悲しみに包まれることなく、前向きな感情に昇華されます。

「誰かに 何かを 伝えること。伝えようとすること。」

それがこんなにも悲しみを退け、前向きな心を生むということを私は知りませんでした。

そして、似たような現象はこの物語の主人公にも起こったようです。

まだ見ぬ娘への手紙

母の死から2年後。

あるきっかけから、主人公はまだ見ぬ娘へ向けて手紙を書きます。

その手紙は「母の死」がもたらした思いをまとめ、これから新しい人生を生きる娘にあてて綴ったものです。

彼は母の死によって、自身の死を意識し、そしてどんな風に死にたいかを手紙に表現しました。

俺の死は 君のペダルを押し込む。

俺の死は 君を前に進ませるんだ。

そうやって俺は 死にたいと思っているよ。

お前のおばあちゃんがそうだったように―

まだ見ぬ娘への手紙
(新潮社/宮川さとし『母を亡くした時、僕は遺骨を食べたいと思った。』最終話「ハナエへ(後編)」)

「どんな風に死にたいのか」を語ることは「どんな風に生きたいか」を語ることです。

母の死は、彼の人生を一歩先へ進めてくれました。

逃げるように地元から離れ、新しい土地でマンガの世界に没頭し、母とは違う味のカレーを食べる。

人生は続いていくのです。

まとめ

ほとんどの人が体験するであろう「母の死」という体験を率直に描いた作品です。

特に私にとっては祖母の死を想起させるもので、随分心が刺激されました。

遺骨をこの身に取り込みたくなるほど近しい人間が、永遠にこの世からいなくなるということは、ほとんど「別の世界」に変わってしまうようなもの。

しかし、それでも時を過ごしていくことで、また「新しい世界」として自分になじんでいくものだと言えるでしょう。

作家としては消耗の大きい作品だったのではないかと想像しますが、よくぞ世に出してくれたものです。

同じように近しい存在をなくした人間へのセラピーにもなりえると思いますし、これからそんな体験をする人間への予告ともなりえる非常に価値ある作品です。

ご一読を!

それでは、また!

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