『宮本から君へ』あまりにもディープ・インパクトな生命力ほとばしりマンガ(祝・映画化!)

マンガ書評

著者:吉原三等兵(@Twitter

さて…。知ってる人は知っている。

新井英樹『宮本から君へ』。

1994年に連載が終了した作品なのですが、2019年9月に映画化されました。

予告編の第一声は、以下のとおり。

日本で最も嫌われた

伝説の漫画

遂に実写映画化!


スターサンズインフォ「映画『宮本から君へ』本予告」/youtube

「伝説」とは大きく出たな、と言いたいところなんですが、この作品に関してはそれも言い過ぎとは言えないところが恐ろしいところ。

新井英樹『宮本から君へ』。

初読時、10代の私の心に深く楔(くさび)を打った作品です。

リアルタイム読者ではないので、「嫌われた」というのがよくわからないのですが、トレンディードラマ全盛時代にトレンディーなマンガかと思いきや全然トレンディーじゃない内容だったからなんでしょう。たぶん。

いつか、『宮本から君へ』のことを書かねばならない。

それはわかっていたのですが、書ける日がくるまでと後回しにしていて、今日に至っています。

情熱(パッション)。

一言で言い表せないなりに一言で言うと、そういうことになってしまうのでしょうか。

ただ『宮本から君へ』はあまりにも「『宮本から君へ』という作品である」、としか形容できない作品であり、「熱い」だのなんだのという言葉は口から漏れ出た途端に、すべて不正確な形容に成り果ててしまう気がします。

それでも私なりに言葉を尽くすなら「宮本が生きているマンガ」ということになるのでしょう。

私はこの作品以上に生命力がほとばしるマンガ作品を他に知りません。

うまく書けるかどうかわかりませんが、『宮本から君へ』の最終巻の発売から二十数年後の映画化に際し、この時点でキーボードを叩いてみようと思います。

それでは、どうぞよろしくお願いします。

「営業・マンガ」ではなく「宮本・マンガ」

東京は中央線・飯田橋駅が最寄りの文具メーカー・マルキタで働く、営業・宮本浩。

(名前はエレファントカシマシの「宮本浩次」氏からきています。ちなみに作中にもいくつかオマージュあり)

私も東京でサラリーマンをしていたことがあり、設定としては大変親近感があるのですが、とてもじゃないけどこの作品を「サラリーマン・マンガ」とカテゴライズすることはできません。

宮本浩という男の仕事、恋愛、人生などへの肉弾的な生き方が描かれる内容なのですが、「どこに焦点があっているか」と考えたときに「宮本浩」にフォーカスされているとしか言いようがない。

無理やりカテゴライズしようとすると、「宮本マンガ」という一属一種のジャンル分けしかできない作品です。

例えば、『宮本から君へ』と同じく「週刊モーニング」誌上で2007~2008年まで連載された、空回り系の営業マンが主人公のかわすみひろし『営業の牧田です。』

『宮本から君へ』を換骨奪胎して企画しなおすとこうなるのでしょうか。

色々と似ている設定や展開があるのですが、ややカジュアルな内容で「サラリーマン(営業)」という題材に焦点をあわせた、まさしく「サラリーマン・マンガ」「営業・マンガ」と言っていいのでしょう(ディスってません)。

「カテゴライズとは歴史を通じて愚者の行為だった」とは同じく新井英樹『ザ・ワールド・イズ・マイン』の中に出てくる言葉ですが、『宮本から君へ』はまさにそのことを体現する作品と言えるでしょう。

カテゴライズ不可能。

ただ、「宮本浩」の人生がある。

そういう作品だと思います。

仕事、うまくいかない→色恋にGO!

ご存じない方のために、少し『宮本から君へ』のあらすじをお話したいと思います。

新卒2年目でルーチン的な意味での仕事には慣れたものの、特に結果が出せているわけでもなく、面白いわけでもなく。

刺激を求めてか女に向かう宮本浩。24歳。

美人に惹かれたり、チャーミングな娘に惹かれたり。

仕事がうまくいかず、身近な女性に(どちらかというとエロス的な意味で)気を奪われていくところは、つげ作品、いましろ作品の登場人物のようでもあります。

かなしいまでに小市民。

しかし。

例えばつげ作品の登場人物と比べてハッキリと異なるのは、その「爆発力」ですね。

色恋、うまくいかない→仕事にGO!

宮本の恋は、意地と情欲と(ほんの少し友情と)の間で揺れ動きます。

あっちに行ったり、こっちに来たり。

さよなら三角、またきて四角。

エネルギーのままに爆走しているかに見える宮本も、結局は中途半端に不器用で、割り切った色恋すらできかねました。

(序盤のあんなことやこんなことは、正直「恋愛」ですらないと思う。「色恋」沙汰。)

一転、彼は仕事に打ち込み、良くも悪くも精一杯やった上での自分を噛みしめようとギアを入れます。

そうなるともう…、積んでるエンジンはモンスター級なものだから空回る力が半端じゃない!

野球の選手に例えてみましょう。

つげ作品の登場人物は、プライドの高さが災いして実力不足を認めることにも苦労する、「人生ベンチスタート」の孤高の補欠選手。

一言で言うと「哀愁」です。

対して「宮本」は勝手に打席に向かい、盛大に空振りを続けたあと、泣いてベンチに引きあげるかと思ったら顔面デッドボールを狙いにいく、劇場型の選手。

一言で言うと「驚異」、いや「脅威」です。

「なんでそうなるんだよ…」と。

はた迷惑っちゃはた迷惑。

救いようがないと言えば救いようがない。

しかし、一種の『捨てがたき人々』(ジョージ秋山)ではあったのだと思います。

新井英樹先生が、

もしボクが独裁者なら

「いましろたかし」を読んで笑えない奴

泣けない奴は殺します

(いましろたかし『初期のいましろたかし:ハーツ&マインズ+ザ★ライトスタッフ+その他』/IKKI COMIX)

と言ったように、私がもし独裁者だったら『宮本から君へ』で泣けないやつ、笑えないやつは殺しま………せんけれども。

宮本と、どこか一点でも交差しない人間とは距離を感じますね。

宮本・怒涛の後半(言い訳編)

さぁ、そこだ。うん。

「宮本の後半」だ。

そこんところなんだけど。うん。

あのー…。

ダメだ。

これが、もう。書けない。

いや、書きたくない。

ネタバレだからっていうわけじゃないけれども、そもそもそういう次元じゃない。

ありのままに言えば、「書いちゃっていいのかな」と禁忌を感じている自分がいます。

本当になんでもかんでも言語化していいのか?

『宮本から君へ』という物語を、「宮本浩」という男を、「熱い」だとか「エモい」だとか薄っぺらくて手垢のつきまくった言葉をパッチワークのようにつむぎ合わせて、勝手に言語化してなんか語った気になってしまっていいのか。

そんな思いが自然とタイピングを止めさせます。

「自分に書けるのかな…」と思いながら書きはじめた『宮本から君へ』の記事ですが、書いてて気づきました。

「書けるかどうか不安」だったのではなく、「書きたくなかった」んですね。

「宮本の後半」を言い表す言葉なんて無い。

少なくとも私は持ってない。

ただ、宮本がそこにいる。

生きている。

精一杯生きている。

これはそういうところまで「達してしまった」物語ではないかと思います。

そしてこの作品、この物語は、まさに宮本から君へ手渡されるべきものであって、私が仲介に入って四の五の言うのは違うんじゃないか。

と、そう思います。はい。

(言い訳終わり)

宮本・怒涛の後半(まじめに書く編)

とはいえ、そんなこと「そもそも論」であって、

「だったらはじめから『宮本から君へ』の記事書くなよ」

という声が聞こえなくもありません。

…ぶっちゃけ私もそう思います。

なので、自分が言語化したくない部分はなるべく放置しつつ「宮本の後半」について自分なりに語れるところを語ってみましょう。

そうしないと、それはそれで卑怯な気もするので。

あなたを未体験ゾーンにぶちこむ「宮本・後半」

『宮本から君へ』のドラマ版の最終回を観終わった時、「ここで終わるならわざわざ映像化する必要ない」って思ってしまったんですよね。

この先をやらないんだったら、画竜点睛を欠くだろう、と。

それほどに『宮本から君へ』の後半の一連の展開は、この物語の「核」になってます。

前半も「思いっきり宮本」ですが、後半に関してはもはや「あらん限りの宮本」

未読の方にとっては、体験したことのないマンガ体験が待っていることを保証します。

(好悪は別にして)

ちょっと言語化したくない部分にかかってくるのですが、後半の主人公はある意味で「宮本」と「靖子」の二人なのかな、と。

「ある(二つの)出来事」を境に、「宮本」と「靖子」の二人は自分の存在を根底から問われることになります。

男として。女として。人間として(そして父として、母として)。

強烈に人生を問われる中で。

二人は自分自身と闘うと同時に、お互いと「対決」していたのでしょう。

いや、自分自身と向き合い闘うことこそが、相手と対峙・対決することと同義であったと言うべきか。

  • 「負けてたまるか」
  • 「ぶつかり合う愛(たましい)と愛(たましい)」

これは映画版のポスターのキャッチコピーですが、正直に言えば「やられた」という思いがあります。

本質的なところを突いてきたな、と。

作中、宮本は某人物と具体的に闘争しているわけですが、「負けてたまるか」とは一見その私闘を指すように見えます。

しかし、実際には「宮本」と「靖子」がお互いに(そして自分自身に)「負けてたまるか」と闘争していたとも言えます。

そうであるからこそ、「ぶつかり合う愛(たましい)と愛(たましい)」となるわけですよね。

某人物とは肉と骨とでしかぶつかり合ってないのですから。

「負けてたまるか」

しかし、よくよく考えてみても「負けてたまるか」

これは、絶妙。

決して、相手に勝とう、優位に立とう、屈服させよう、じゃないんですよ。

誰かに対して「負けたくない」というのは、対等でありたい、ということだったり、自分をそこまで引き上げたいということだったりするのかもしれませんが、いずれにせよ誰かを負けさせようというのではなく、自分が「負けたくない」という話。

これは、「相手に勝つ」ということとは(薄皮一枚ではありますが)、決定的になにかが違うようにも感じます。

話を大きくして申し訳ないのですが、今の日本の状況を考えると、ほとんどの人にとって「誰かに勝つ」ことを考えるより、「何かに負けない」ことを考えることの方が健全な気がしますね。

ほとんどの人には「勝ち」の目なんて、ない。

ただ生きてるだけで「負け」「負け」「負け」。

そんな日本人におくる「負けてたまるか」なのかもしれませんね。

それにしても。

時に引き、時に押し、理路整然と、場合によってはアグレッシブに説得を重ねたエウメネスは恋に破れ、

押しの一手で、理屈もへったくれもないデタラメなプロポーズを敢行した宮本はうまくいってしまう。

人生や男女の仲の矛盾、不可思議さを考えてしまいます。

私が『宮本から君へ』から受けた影響

まずは本編中のこちらのやりとりをご覧ください。

(裕二)

たまげるほど人の気持ちがわかんねえ野郎だな

(宮本)

その分 俺ぁ

俺の気持ちなら

目ん玉飛び出るほど

わかってんら

俺ぁそれで

十分ら!!

新井英樹『宮本から君へ』第129話「道程」

ズーンときたなぁ。このセリフ。

「人の気持ちがわからない」

少年時代の私は自他ともに認める「人の気持ちがわからない」人間でした。

結構、他人が「何を考えているか」は正確にとらえられるタイプだったと思うんですが、今で言う「共感能力」は平均よりかなり下でしたね。

人が考えてることはわかるけど、人の気持ちはわからない。

で、下手に他人の考えていることがわかることと共感能力の欠如によるダブルパンチで周囲とのコンフリクトは大きかったわけですが、そのことに対する反省無き反発もあったんですよ。

「俺は悪くねぇ」と。

ただ、やっぱりどこか一点、そのことに対する後ろ暗さというか欠落感を抱えていたんだと思います。

で、宮本のこのセリフ。

「他人の気持ちはわからないが、自分の気持ちはよくわかっている」

「俺は、それで十分だ」

はじめて他者から自分の「共感能力の低さ」を肯定してもらえたような気がしたんですよ。

そうすると不思議なもので。

余裕が出てきたのか冷静になれたのか、逆に素直に「他者の心を慮(おもんぱか)ろう」と思えました。

いまだに共感能力自体は低いと思いますし、別にそこを改善しようなんていう気はサラサラないのですが(しょうがない、そこは。心の紋様みたいなものだろうから)、そのことと「他者を慮(おもんぱか)ろうと努める」ということはまったく矛盾しないんですよね。

この作品からの影響はいろんなところで受けたかもしれませんが、はっきり言語化できる形で受けた影響はこの部分です。

映画『宮本から君へ』で宮本浩を演じた池松壮亮さんは「宮本みたいになりたかったけど、なれなかった」とおっしゃってましたが、逆に私は『宮本から君へ』によって宮本的なものから少し離れることができた、という言い方もできるかもしれません。

『宮本から君へ』あまりにもディープ・インパクトな生命力ほとばしりマンガ・まとめ

「打ち切り」であった、と伝えられています。

時は90年代前半。浮かれた時代にハンマーを振り下ろすような衝撃を与えたことは想像に難くありません。むべなるかな連載当時は人気がなかったそうです。

しかし、確実に特定の層の人間の心に深く爪痕を残した作品ではあったのだと思います。

例えば。

その昔、2000年代初頭。「ココリコミラクルタイプ」というコント番組がありましたが、そこで異質な空気を放っていたのは「本宮から君へ」というほぼほぼパロディに近い作品です。たしか、深夜枠の時代だったと思いますが、他はギャグテイストの笑える作品が多かっただけに、余計に目立っていました。

『宮本から君へ』はそもそもテレビでパロディに使えるほどの有名作であったはずもなく、"ミヤモト熱"に罹患してしまった制作陣が制作欲を抑えることができずぶちこんでしまったんだろう、と当時から解釈しています。

そう言えば、『ブラックジャックによろしく』で知られる佐藤秀峰先生も『宮本から君へ』に触発されてマンガ家を目指したのだとか。

よくわかる話です。

また、本作を今、このタイミングで映画化しようなどということ自体もそうでしょう。

時の流れに埋もれなかった、いや埋もれることが許されなかった作品とも言えます。

近年『宮本から君へ』や『愛しのアイリーン』などが次々と映像化されていることに感慨を感じずにはいられません。

(復刊もされてなかった、amazonも無かった時代にこれらを収集することがどれほど難しかったか!!)

有り体に言えば、「時代が新井英樹作品に追いついた」ということになるのでしょう。

少しずつ本質的なものが求められる時代になっているのではないか、と思います。

(かつその真逆のものが大量消費される両極的な時代ではあるものの)

あらためて、映画化おめでとうございます。

映画・マンガともに、『宮本から君へ』という作品が、必要とするすべての人へ届けられますように。

あ、最後に映画『宮本から君へ』の主題歌、宮本浩次「Do you remember?」(ギターに横山健)のフルバージョンをあらためてご紹介いたします。

(上の予告編の動画では途切れ途切れですので)

この映画のために書き下ろしされた楽曲だそうです。

ドラマ版のエレファントカシマシ「Easy Go」も「宮本・前半」をあらわす素晴らしい曲だと思いますが、この「Do you remember?」も「宮本・後半」を担うにふさわしい曲です。

聞いただけで『宮本から君へ』の終盤のシーンが脳裏に蘇りましたね。


宮本浩次「宮本浩次-Do you remember?」/youtube

あせわせて読みたい

『宮本から君へ』の次に新井英樹先生が世に出した『愛しのアイリーン』と、記事中に登場したジョージ秋山『捨てがたき人々』の2点をご紹介。

新井英樹『愛しのアイリーン』

連載は95年~96年くらいの作品なんですが、20年以上の時を経て、2018年に映画化されました!


シネマトゥデイ「なぜ血まみれに…『愛しのアイリーン』予告編」/youtube

本当、『宮本から君へ』もそうですが、やっと時代が追いついた、というところでしょうか。

作者の新井英樹先生曰くずっと売れてなかったそうなので、こういうことを機にどんどん再読されて欲しい!

新井英樹先生がもっと仕事をしやすくするために)

新井英樹先生の作品は、血と汗と涙とその他いろいろな体液のにおいと熱情に溢れています。

「散らかった生活感のある部屋」を描かせたら日本一ですね。

クラシックで言うと、「ベートーヴェン」か「モーツァルト」か、と言ったら確実に「ベートーヴェン」的。

地を這う情熱です。

映画的演出が特徴で、その主題選びやキャラクターの「生きてる」感など、ちょっと似ている作家は出てこない。

今読んでもまったく色あせないです。

『宮本から君へ』に揺さぶられた方は、ぜひこの作品もどうぞ。

(また違う意味で消耗の激しい作品です)

ジョージ秋山『捨てがたき人々』

ジョージ秋山先生はエグい作品を「どうだ!エグいだろ!」という力みや見せつけなしに、ふっつーに描くからおそろしい。

どんだけそういう日常に身を置いてるんだ、という話で。

「マンガ力は人間力」ということを改めて思います。

宗教的、仏教的な側面もあり、読み応えがありますね。

終わり方がドシンと終わってないのがまたおそろしい。

救いようのない人生は続く、と感じさせる。

おすすめ。